水曜日の朝、信号が青になるまで
日曜日の夕暮れ。図書室の軒先に咲く紫陽花(あじさい)が、雨に濡れて鮮やかな青色を放っている。 紫陽花の色は、土の酸性度によって変わるという。置かれた環境によって、自分の色を変えてしまう花。それはどこか、社会という土壌に染まっていく僕たちの姿…
土曜日。予報通りの土砂降りは、街から「外出」という選択肢を奪い去った。 図書室の窓を叩く雨音は、どこか遠い異国の大太鼓のように、力強く、そして単調に響いている。利用者は一人もおらず、僕と透子(とおこ)の二人だけが、静まり返った館内に取り残さ…
金曜日の夜。外は土砂降りだった。 透子が玄関を開けた時、彼女の体からは、冷たい雨の匂いと、芯まで冷え切った焦燥感が漂っていた。 「……湊くん。もう、体が重くて動かない。指先までふやけて、自分が溶けて消えちゃいそう」 彼女はカバンを投げ出し、その…
木曜日。再開発のデベロッパーの担当者が、雨合羽を着て図書室に現れた。 彼の持っている分厚い図面ケースは、雨のせいで少しふやけて、角が丸くなっていた。 「湊さん。文化財調査の件ですが……中間報告が出ました。残念ながら、建物の梁(はり)に価値は認…
水曜日の朝。返却ポストに、一冊の古い『万葉集』が入っていた。 著作権の概念など存在しなかった千年以上前の歌集。ページをめくると、あの中大兄皇子の有名な歌ではなく、あまり目立たない一首の横に、あのピンク色の付箋があった。 『雷神(なるかみ)の…
火曜日。雨は止む気配を見せず、図書室の中にも重たい湿気が忍び込んできた。 本たちが、空気中の水分を吸って、いつもより少しだけ厚みを増しているように感じる。古い紙と、湿ったウールのコートが混ざり合った、独特の、どこか寂しい匂い。 午前中、一人…
六月一日。月曜日の朝。世界は、濃い灰色のベールに包まれていた。 しとしとと降り続く雨は、街の輪郭を曖昧にし、あらゆる音を湿った空気の中に閉じ込めてしまう。五月のあの眩しい光が、遠い前世の記憶のように感じられるほど、急激な季節の転換だ。 駅の…
五月三十一日、日曜日。予報通り、朝からしとしとと静かな雨が降り始めた。 五月のあの突き抜けるような光を、すべて優しく覆い隠すような、淡い灰色の空。 僕はカウンターで、今月の「心の収支報告書」をまとめていた。 再開発の波、井戸の発見、説明会での…
土曜日。五月の最後を飾るような、どこまでも高い青空が広がっていた。 図書室のテラス席で、僕は昨日透子が残した、わずかなメイプルシロップの香りを思い出しながら、一冊の古い地誌を捲(めく)っていた。 ふと、一人の常連の老婦人が、僕の元にやってき…
金曜日の夜。今日ばかりは、僕の方が「価値」や「責任」という言葉に押し潰されそうになっていた。 再開発を巡る賛成派と反対派の議論。文化財調査のプレッシャー。屋根裏の手紙から受け取った重いバトン。それら全てが、僕の肩に鉛のようにのしかかっていた…
木曜日。図書室のカウンターで、僕は昨日の手紙のことを考え続けていた。 世の中には、二種類の「価値」がある。 一つは、誰にでも分かる「数字」としての価値。坪単価、耐震等級、再開発による経済効果。それは明確で、議論の余地がない。 もう一つは、本人…
水曜日の午後。文化財調査員の女性と共に、僕は普段立ち入ることのない図書室の屋根裏へと足を踏み入れた。 梯子(はしご)を登った先は、何十年分もの埃(ほこり)と、どこか懐かしい木の匂いに包まれた、静寂の塊のような空間だった。 「湊さん、見てくだ…
火曜日の朝。返却ポストに、芥川龍之介の『羅生門』が入っていた。 雨が降りしきる中、生きるために悪を正当化する下人の物語。ページをめくると、あの中盤、老婆の服を剥ぎ取る場面に、あのピンク色の付箋があった。 『「生きるためなら何をしてもいい」と…
月曜日の朝。図書室の前に、一台の黒いセダンが止まった。 降りてきたのは、先日のデベロッパーの男性……ではなく、白髪の混じった眼鏡の女性だった。彼女は建物を見上げ、小さなカメラで外壁を丁寧に撮影し始めた。 「失礼。ここの管理人の湊さんですね? 私…
日曜日の午後。僕たちは、髪に微かな潮の匂いを残したまま、街へと戻ってきた。 駅を降りた瞬間に鼻を突くのは、アスファルトが焼ける匂いと、排気ガスの乾いた空気だ。海での数時間が、まるで遠い異世界の出来事のように思えてくる。 「……現実に戻ってきち…
土曜日。僕たちは始発電車に乗り、一時間半かけて海へ向かった。 街の喧騒と再開発の騒音から逃れるための、小さな逃避行だ。五月の海は、まだ夏のような暴力的な輝きはなく、ただどこまでも優しく、透き通った青を湛(たた)えていた。 「……広いね。図書室…
金曜日の夜。今日に限っては、僕の方が精神的に限界を迎えていた。 昼間、再開発反対派の住民から「もっと過激に抗議しろ」と迫られ、賛成派からは冷ややかな目を向けられた。正解のない対立の真ん中に立ち続けることは、僕が想像していた以上に心を摩耗させ…
木曜日。閉館後の図書室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 僕は一人、返却された本を棚に戻す作業を続けていた。ふと、哲学の棚にあるアルベルト・カミュの『シーシュポスの神話』に目が止まった。 何かに導かれるように本を手に取ると、案の定…
水曜日の朝。図書室の入り口に、昨夜まではなかった「落とし物」があった。 それは丸められた一枚のチラシで、再開発計画の華やかな完成予想図の上に、太いマジックで『邪魔をするな』とだけ書かれていた。 説明会での僕の発言は、どうやら一部の住民にとっ…
火曜日の朝。説明会の余韻が、重い倦怠感となって体に残っていた。 図書室に行くと、カウンターの返却本の中に、紫式部の『源氏物語』が入っていた。現代語訳ではなく、注釈がびっしりと書き込まれた、古い学術書のような一冊。 その「桐壺」の巻末に、あの…
月曜日の夜。公民館の会議室は、再開発計画の説明を聞きに来た住民たちで埋め尽くされていた。 正面のプロジェクターには、色鮮やかな完成予想図が映し出されている。緑豊かなテラス、ガラス張りの商業施設、そして「多目的スペース」と名付けられた、無機質…
日曜日の夕暮れ。明日の月曜日には、図書室の存続を左右する「住民説明会」が控えている。 街は、大型連休が遠い昔のことのように、完全に日常の喧騒を取り戻していた。 「湊くん。明日の説明会、本当に出るの? 相手はプロよ。正論でねじ伏せようとしても、…
土曜日の午前中。僕と透子(とおこ)は、あの座標が示した神社の裏手にある井戸の前に立っていた。 五月の眩しい光が、錆びついた手押しポンプの輪郭をくっきりと浮き彫りにしている。昨日までのスパイスの余韻が残っているのか、透子の足取りは少しだけ軽や…
金曜日の夜。透子が玄関を開けるなり、「辛いものが食べたい!」と叫んだ。 彼女の顔には、一週間分のストレスが蓄積し、今にも爆発しそうな小さな火花が散っている。 「どうしたの。そんなに殺気立って」 「クライアントが無茶を言ってきたのよ。修正に修正…
木曜日。図書室に戻った僕は、昨日見つけた「井戸」のことが頭から離れなかった。 あの空き地は、再開発計画の図面では「大型商業施設の搬入口」になる予定の場所だ。地底を流れる水脈も、あの錆びたポンプも、重機によって跡形もなく押し潰されてしまうだろ…
水曜日の朝。僕は昨夜からずっと気になっていた、あの付箋の裏に書かれた謎の数字を調べていた。 それはやはり、緯度と経度を示す座標だった。スマートフォンでその場所を検索してみると、図書室から歩いて十五分ほどの場所にある、古い神社の裏手にある小さ…
火曜日の朝。返却ポストに、夏目漱石の『吾輩は猫である』が入っていた。 期待半分、不安半分でページをめくると、案の定、あのピンク色の付箋が貼られていた。場所は、猫が人間の滑稽さを観察して冷笑する場面だ。 『「人間は己(おの)れが作り出した制度…
月曜日の昼下がり。図書室の入り口に、見慣れない「硬い足音」が響いた。 やってきたのは、三ピースのスーツを隙なく着こなした、四十代半ばほどの男性だった。彼は、本を探す風でもなく、館内を値踏みするような鋭い視線でぐるりと見渡した。 「失礼。ここ…
日曜日の夜、八時を過ぎる頃から、街の空気は急激に重くなっていく。 明日から始まる「戦い」に備えて、人々がそれぞれの鎧(よろい)をクローゼットから取り出し、精神の防波堤を高く築き始める時間だ。 SNSを覗けば、また「週末をいかに有意義に過ごしたか…
土曜日の図書室は、世界から「効率」というネジが一本抜けたような、独特の緩やかさに満ちている。 窓から差し込む光は、本棚の背表紙を優しく撫で、埃(ほこり)さえもキラキラとした星屑のように見せてくれる。 透子(とおこ)は、図書室の隅にある一番古…