YMO世代の気持ち -ノベル館-

YMO世代の気持ちのサブブログです。

第3話「図書館」

古い図書館の書架

Photo by Ahmet Yüksek (Unsplash)

1. 浜辺

朝七時に家を出た。

まだ涼しい時間帯で、商店街もシャッターが半分くらいしか開いていなかった。 子供のころと同じ道を、子供のころと同じ歩幅で歩いていく感じが、すこしだけ気持ち悪かった。 体の大きさは変わっているのに、町の縮尺だけが昔のままだった。

汐見海水浴場には、まだ人がほとんどいなかった。 監視台のおじさんが、椅子を組み立てている最中だった。 波が静かで、潮が引いた跡の砂が、しっとりと光っていた。

写真を一枚、ジップロックから出した。 浜辺と、沖の歯と、女性の横顔が写っているやつ。

写真と同じ角度を探して、砂浜を歩いた。 ここかな、と思って立ってみた。 違う。 もう少し右だ。 で、もう少し下がって——たぶん、ここ。

岩礁の見え方を写真と見比べた。 形は同じだった。 でも、20年も経つと、まわりはやっぱり変わっていた。

写真の左奥に写っている小屋が、いまは無い。 代わりに、ピンクのプレハブみたいな海の家が建っていた。

「サンセット」と看板が出ていた。

知ってる。村岡さんの店だ。

2. 諦める

写真を持って、そのまま村岡さんの店に行こうかと思った。 けど、まだ開いていなかった。 お昼前まで開かないらしい。

立ち尽くしていたら、急に思った。

——これ、写真の場所をひとつずつ確かめても、たぶん埒があかない。

いつ撮ったかもわからない、誰が撮ったかもわからない。 場所だけ確認しても、それだけで終わる。 だったら、町の昔の資料から先に当たったほうが早い気がする。 何年代の写真かだけでもわかれば、絞り込める。

たぶん、図書館だ。

中学のとき、夏休みの宿題でよく行った。 古い建物の、すごく静かな図書館。

スマホで開館時間を確認した。 九時から。 あと一時間ある。 監視台のおじさんに会釈して、商店街のほうに戻った。

途中、コンビニで冷たい缶コーヒーを買った。 家でちゃんと朝ごはんを食べてくればよかった、と思ったけど、もう遅かった。

3. 受付

汐見市立図書館は、駅から歩いて五分のところにあった。

灰色の、すこし古びた二階建て。 入り口の自動ドアは、半分くらいの速度で開く。 冷房はちゃんと効いていて、入った瞬間にまわりの空気がしんと変わった。

受付に、女の子がひとりいた。

年は俺と同じくらい、たぶん。 髪を後ろでひとつにまとめていて、白い半袖シャツに紺のエプロンをつけていた。 本のバーコードを読み取る作業をしていた。 顔をあげなかった。

「すみません」

それでようやく顔をあげた。

「町の昔の写真とか、資料ってありますか」

一拍、間があった。 こっちを見る目が、すこし冷たい——というか、こちらの用件をきちんと量ろうとしている目だった。

「郷土資料コーナーにあります。何年代のものをお探しですか」

声は、思ったよりはっきりしていた。 無愛想ではないけど、やわらかくもない。 ただ、必要なことだけを返してくる感じ。

「えっと——20年前くらい、ですかね」

「2000年代前半ということですか」

「あ、はい。たぶん」

「二階の右奥です。年表と、写真集と、町報のバックナンバーがあります」

「ありがとうございます」

軽く会釈すると、彼女はもう作業に戻っていた。 バーコードリーダーがピッと鳴った。

4. 沖の歯

二階に上がった。

郷土資料コーナーは、思っていたより小さかった。 本棚が三本だけ。 端に閲覧用のテーブルがひとつ。 誰もいなかった。

町報のバックナンバーをひととおりめくってみた。 2000年代前半の汐見の写真がいくつかあった。 浜辺の写真もあった。 構図は違うけど、岩礁の見え方は写真と同じだった。

たぶん、撮影場所はやっぱり間違ってない。 あとは——いつ撮ったか、だ。

ふと思いついた。 あの岩礁、地元では何て呼ばれてたか、調べておきたい。 記憶では「沖の歯」だった気がするけど、子供のころの記憶は当てにならない。

下の階に降りた。 受付に、また彼女がいた。

「すみません、もう一回」

彼女は顔をあげた。

「これ」

写真を一枚、カウンターに置いた。 浜辺と岩礁の写真。

「この岩礁、地元ではなんて呼ばれてるか知ってますか」

彼女は写真を、すこしだけ覗き込んだ。 近づきすぎない距離で。 でも、ちゃんと見ていた。

岩礁の話を聞かれているのに、彼女の視線は、写真の中の女性のところで、いっとき止まった気がした。 ほんの一拍。 気のせい、かもしれなかった。

少し考えてから、彼女は言った。

「沖の歯、です。昔からそう呼んでます」

「あ、やっぱり。よかった」 「合ってましたか」 「子供のころそう呼んでた気がしてたんですけど、自信なくて」

彼女は、ふっと、すこしだけ表情を緩めた。 笑った、というほどでもない。 ほんの少し、口角が動いただけ。 でも、最初の冷たさが、そこで一段落ちた感じがした。

5. 片桐夕

写真を封筒にしまっているとき、彼女のエプロンの胸元の名札が目に入った。

片桐 夕

「片桐さん」と頭の中で繰り返した。 名前を読むのに、たぶん俺はちょっと間があいた。 彼女がそれに気づいたかどうかは、わからない。

「ありがとうございました」 「いえ」

帰り際、もう一度言った。

「また来るかもしれません」

彼女は何も答えなかった。 バーコードリーダーがピッ、と鳴った。 それが返事の代わりだった気もするし、ただの偶然だった気もする。

たぶん、偶然だ。

6. 振り返り

自動ドアが、半分の速さで開いた。

外に出た瞬間、夏の空気がぶわっと顔に当たった。 館内の冷房と外気の差で、眼鏡が一瞬で曇ったらどうしよう、と思ったけど、俺は眼鏡をかけていなかった。

歩き出してから、なんとなく振り返った。 理由はない。 本当に、理由はない。

ガラス越しに、彼女が見えた。

受付のカウンター越し、こちらを見ていた。 たぶん——というか、ほぼ確実に、こちらを見ていた。 作業していたバーコードリーダーが、片手に持ったままになっていた。

目が合った気がした。

すぐ、彼女は目をそらした。 カウンターに戻って、また作業を始めた。 ピッ、と音が鳴った。

なんだろう、と思った。 こっちが先に振り返ったから、向こうが見ていたかどうか確かめようがない。 でも、たぶん、向こうも振り返っていた。 呼んだわけでもないのに。

どっちが先に振り返ったのか、わからない。 ただ——思い出すたびに、たぶん向こうが先だった気がした。

7. 帰り道

帰り道、海沿いを歩いた。

太陽はもう高くなって、汗が首筋を伝った。 コンビニで買った缶コーヒーは、もうとっくにぬるかった。

頭の中に、ずっと、彼女の名前があった。

片桐夕。

別に、何かが起きたわけじゃない。 ただ写真を見せて、岩礁の名前を聞いただけだ。 それだけだ。

それだけ、なのに、なんで頭から離れないんだろう。

たぶん、写真の女性のときと、同じだ。 顔が、頭から離れない。 それだけ。 それだけのことが、こんなに引っかかる。

夏休みは、まだ始まったばかりだった。


次回「岩礁」は2026年7月31日公開予定です。


📷 カメラの話

フィルム現像の仕組み——光が記憶になるまで

蒼が現像屋に持ち込んだあの一週間、フィルムの中で何が起きていたのでしょうか。

フィルムには「ハロゲン化銀」という光に反応する粒子が塗られています。シャッターを切った瞬間、その粒子が光を受けて目に見えない「潜像」を作る。それを薬品で「現像」することで、ようやく目に見える像になる——という仕組みです。光が、記憶として固まるまでに、何段階もの化学反応がある。

20年前のフィルムが今ちゃんと現像できたのも、この潜像が温度や湿度の条件次第で意外と長持ちするからなのです。

→ くわしくはこちら:写真ができるまで — キヤノン サイエンスラボ