
Photo by Codrin Rusu (Pexels)
1. もう一度
図書館の資料は、思ったほど役に立たなかった。
2000年代前半の汐見の写真はあったけど、被写体の女性に近い人は、町報のどこにも写っていなかった。 当然といえば当然だ。 町報に載るのは、町内会のお祭りとか、漁協の表彰とか、そういう人たちで、 若い女性が浜辺で笑っているだけの写真は、誰の役にも立たない。
何年代の写真かは、結局、絞れなかった。 ただ「2000年代の前半」という、ぼんやりした感触だけが残った。
それでも、何かしないと落ち着かなかった。 落ち着かないというのは、嘘かもしれない。 ただ、町を歩く理由が欲しかった。
写真を、もう一度、ちゃんと照らし合わせよう、と思った。 13枚のうち、岩礁が写っているのは三枚あった。 それぞれ角度が違う。 別々の場所から撮っている。 ということは、同じ日に、撮影者は浜辺をすこし移動している。
順を追って、立ってみたかった。 そうしたら、もしかしたら、撮ったほうの動きが見えるかもしれない。
そういう、ささやかな動機だった。
2. 浜辺
土曜日だった。
浜辺はそこそこ人がいた。 家族連れ、地元の高校生っぽいグループ、犬を連れたおじいさん。 みんな、自分の夏休みのなかで好きにしていた。 誰も俺のことなんか見ていない。 それがちょうどよかった。
写真を一枚出した。 岩礁の二枚目。 最初の写真より、少し右から撮っている。 女性が画面の左寄りに立っていて、岩礁が背景の真ん中にある。
砂浜を歩いた。 立つ位置を、すこしずつずらした。 ここかな、と立ち止まる。 違う。 岩礁の形が、写真より少し低い。 もう五メートル、海寄り。
砂が、足の指のあいだに入ってきた。 スニーカーを脱いで、ビーチサンダルを履いておけばよかった、と思った。 こういう細かい後悔が、夏には妙に多い。
岩礁の角度が合った場所で、立ち止まった。
ここだ。 写真の女性が立っていたのは、ここだ。
足の裏で、確かめるみたいに、砂を踏み直した。
3. 後ろ姿
そのまま、海に向かって、しばらく立っていた。
風が強くなって、シャツがふくらんだ。 潮の匂いが、図書館の冷房の匂いを上書きしていく感じがした。
ふと、視界の端に、人影が入った。
砂浜のずっと先。 こちらに背を向けて、海を見ている女の子。 白い半袖シャツに、黒いロングスカート。 髪は、後ろでひとつにまとめている。
——あ。
直感だった。
近づいた。 歩きながら、人違いだったらどうしよう、と思った。 そっと引き返して、何事もなかったふりをすればいい。 そう自分に言い聞かせた。 言い聞かせながら、足は止まらなかった。
「片桐さん」
声をかけたら、振り返った。
夕だった。
夕も、すこし驚いた顔をした。 驚いた、というより、想定外だ、という感じの顔。 それでもすぐ、いつものすこし冷たい目に戻った。
「奇遇ですね」と俺は言った。
「そうですね」と夕は言った。
それだけだった。 それだけだったけど、こちらの心臓は、わりと忙しく動いていた。
4. 並んで
「散歩ですか」
「そうです」
「日課ですか」
「日課というほどでもないです」
会話は、たぶん、続かない感じだった。 でも、夕は、なぜか歩き出さなかった。 俺もその場から動けなかった。
しばらく、ふたりで海を見ていた。 何かを話さないといけない気がして、写真を出した。
「これ、ここで撮られたっぽいんです」
夕は写真を覗き込んだ。 最初の日のように、近づきすぎない距離で。 でも、ちゃんと見ていた。
「岩礁の形、ほんとに同じですね」 「ですよね」 「光の角度まで、似てる気がします」
夕がつぶやいた。 俺は、ちょっとびっくりした。 そんな細かいところまで見ているんだ、と思った。
「同じ夏かもしれない、って思いました」 「夏の、何月くらいでしょうか」 「七月か、八月か。たぶん」 「そうですね」
夕は、もう一枚、別の写真を指差して言った。
「この角度、違いますね」 「次の場所です。あっちのほうから撮ったやつ」
「行きますか」 「え」 「そっちも、確かめるなら」
「あ、はい」
なんで一緒に来てくれるのかは、聞けなかった。 聞いたら、答えられなくて、来なくなる気がした。
5. 三枚目
二枚目の場所から、海沿いに数十メートル歩いた。 三枚目の写真は、岩礁を真横から撮っていた。 女性は写っていない。 ただの風景写真みたいだった。
でも、夕は、その「ただの風景写真」を、長いこと見ていた。
「この一枚は、被写体がいないんですね」
「そうなんです」
「他の写真、全部、女の人が写ってるのに」
「はい」
「これだけ、ない」
夕は、すこし黙った。 それから、言った。
「カメラを構えてくれる相手が、ここで一回いなくなったってことかも、しれないですね」
俺は、夕の横顔を見た。 夕は、海を見ていた。
なんとなく言ったような言い方だった。 でも、たぶん、なんとなくじゃなかった。 夕は、写真の中に、撮るほうと撮られるほうの関係を、見ていた。
俺はそれまで、写真をひとつの「画面」として見ていた。 でも夕はたぶん、そこに、人と人がいたことを、最初から見ていた。
夕は、写真というものを、こういうふうにしか、見られない人なのかもしれなかった。 誰が写っていて、誰が写っていないか。 写っている人と、写っていなかった人のあいだに、何があったか。
いつから、そういう見方を、しているんだろう。 聞こうかと思って、聞かなかった。 聞ける感じじゃ、なかった。

Photo by Felix Kühn (Pexels)
6. スコール
二枚目の場所を出て、海沿いを引き返していたとき、急に空が暗くなった。
たぶん十秒で、世界の色が変わった。 肌に、湿った風が当たった。
「あ」と夕が言った。 俺も、ほぼ同時に、同じことを思った。
ぱらぱら、が、すぐに、ばらばら、になった。
「あの軒下」
夕が指さしたのは、閉まったままの古い民家の、ひさしだった。 ふたりで走った。 俺はサンダルだったから、片方が、走りながら、脱げかけた。
ひさしの下に駆け込むと、目の前で、雨が壁みたいに降っていた。
「夏のスコール、ですね」 「五分で止みますよ、これ」 「ですよね」
息が、すこし、上がっていた。
「走るの、早いですね」
夕が、ぽつりと、言った。
「あんまり、言われたことない」 「私、運動、ぜんぜんダメで」 「サンダル、落としかけてたのに、ですか」 「落としかけた、だけです」
夕が、すこし、笑った。 声は、ほぼ、出ていなかった。 でも、肩が、ちょっと、揺れていた。 それを見て、俺もすこし、笑った。
雨は、本当に、五分くらいで、止んだ。 止む直前の、いちばん細くなった雨を、夕は、ひさしの先で、手のひらで、すくっていた。 何回かすくっては、こぼしていた。
意味のない時間、というのは、たぶん、こういう時間のことを、言うんだろう。
7. 帰り道
そろそろ帰ります、と夕が言ったので、二人で浜辺を引き返した。
途中まで、ほとんど話さなかった。 波の音と、遠くの子供のはしゃぎ声が、ずっと聞こえていた。 俺の頭の中では、夕がさっき言ったことが、何度も繰り返されていた。
「相手が、ここで一回いなくなった」
その言い方が、頭から離れなかった。
商店街の入口まで来て、夕が立ち止まった。
「私、こっちなので」
「あ、はい。ありがとうございました」
「いえ」
夕は、すこし歩き出してから、振り返って、ぽつりと言った。
「その写真の人、誰なんですかね」
俺は、何て答えていいか、わからなかった。
「わからないんです。だから、調べてて」
「そうですか」
夕は、それだけ言って、商店街のほうに歩いていった。 俺はその背中を見送った。
「その写真の人、誰なんですかね」
その言い方が、なんていうか—— 俺に聞いているというより、自分に確かめているみたいだった。 他人事じゃない、というふうな、顔で。
たぶん、気のせいだ。 夏の浜辺で、変な妄想をしているだけだ。 そう思った。
そう思ったけど——その夜、写真をもう一度、机に並べたとき、 あの女性の笑い方を、俺は、長いこと見ていた。
次回「似ている」は2026年8月7日公開予定です。
📷 カメラの話
外房をフィルムカメラで歩く
蒼と夕が並んで歩いた、あの浜辺の光。フィルムカメラで実際に外房を撮った人の記録があります。
紹介するのは、Leica M3というクラシックなカメラでモノクロ撮影された勝浦の写真集。フィルム特有の濃淡、海と空のあいだの光のグラデーション、商店街の昭和的な空気——それが、ぜんぶ、ひとつのフレームに収まっています。デジタルでは絶対に出ない「夏のけだるさ」のような質感が、ここには写っています。
→ くわしくはこちら:外房の勝浦へ避暑に向かったが・・・ — aremo-koremoブログ