YMO世代の気持ち -ノベル館-

YMO世代の気持ちのサブブログです。

第5話「似ている」

緑に覆われた石段の坂道

Photo by Kouji Tsuru (Unsplash)

1. 毎日のように

夏休みは、思ったよりすぐ「日常」になった。

朝起きて、母の食堂の残り物の味噌汁を飲んで、カメラと封筒を持って家を出る。 町を歩いて、写真の場所をひとつずつ確かめる。 昼前に図書館に寄ると、夕がいる日があった。 いない日もあった。

いる日は、声をかけた。 いない日は、二階で適当に資料をめくった。 そういう日課が、すこしずつできていった。

健太からは三日に一度くらいLINEが来た。

何か進んだ
進んだような進んでないような
それなんも進んでないやつ
お前そろそろ毎日何してんの
散歩
散歩で済むかよ

俺もそう思っていた。 散歩、で済んでいるはずがなかった。 でも、自分でも何をしているのかうまく説明できなかった。

写真の場所を確かめている、というのは、本当だった。 ただ、それだけじゃない、というのも、本当だった。

2. 夕と歩く

夕が一緒に来るのは、最初は週に一度くらいだった。 それがいつのまにか、二度になり、三度になっていた。

理由は、俺も、たぶん夕も、聞かなかった。 聞いたら気まずくなる気がしたし、聞かなくても歩けたから、そのままにした。

夕は、歩くペースが意外と早かった。 無口なぶん、足のリズムが先に行く感じだった。 俺はそれにすこし遅れて、写真と景色を比べながらついていった。

夕は、写真の細部をよく見ていた。 俺が「ここっぽい」と立ち止まると、夕は写真の隅っこにある電柱の影や、塀の苔の生え方を指でさして、

「もう少し、あっち寄りじゃないですかね」

と言った。 たぶん夕のほうが向いていた、こういう作業に。

一度、ふたりで、ふつうに、道に迷ったことがあった。

写真の中に、コンクリートの低い塀の上に、植木鉢が五つ並んでいる一枚があった。 似たような塀は、汐見じゅうにあった。 住宅地のなかを、半日、ぐるぐる歩いて、結局、見つからなかった。

途中、坂の途中の、なんでもない小さな神社の縁側に、ふたりで並んで座って、自販機の缶コーヒーを、飲んだ。

「私、こんなに地元で迷ったの、はじめてです」 「地元って、そういうもんじゃないんですか」 「そういうもんじゃ、ないと思います」

蝉が、頭の上で、鳴いていた。 缶コーヒーは、思ったより、つめたかった。 夕は、足を、すこしだけ、ぶらぶらさせていた。 俺は、夕の足のぶらぶらを、できるだけ見ないように、ずっと、自分の缶を見ていた。

3. 稲荷坂

その日は、稲荷坂を確かめに行った。

商店街の裏から、ゆるい上り坂が続いていた。 途中に小さな神社があって、そこから先はもっと急になる。 両側に、ぽつぽつと古い民家が並んでいた。 昔ながらの木造の塀。 夏みかんの木が、誰の家の境界かわからない感じで、道に枝を伸ばしていた。

写真の中の坂は、たぶん、神社の石段の手前あたりだった。 木洩れ日の落ち方で、夕方のすこし前くらい。 被写体の女性は、坂の真ん中あたりに立っていて、こちらを振り返って笑っていた。

夕と並んで、写真と景色を見比べた。

「だいたい、ここですね」

「うん。光の方向も、合ってる」

「夕方ですね」 「夕方ですね」

夕は、坂のずっと上のほうを見ながら、すこし遠い目をしていた。

「私、この坂、好きです」と、ぽつりと言った。 「子供のころ、よく登ってました」

「今も、登るんですか」 「今は、あんまり」

「なんで」 「忙しい、ふりをしてるから、かもしれないです」

「なに、ふり、ですか」

「……考えないように、するために、忙しくする、みたいなこと、あるじゃないですか」

俺には、あんまり、ピンとこなかった。 俺は、考えるべきことを、ふつうに、考え忘れる側の人間だった。 でも、夕には、たぶん、ずっと、そういう習慣があった。

夕の言い方は、笑っていた。 でも、目はそんなに笑っていなかった。

4. スマホ

「ここ、お母さんの昔の写真にも写ってたんですよ」

夕は、ポケットから、スマホを出した。 ロックを解除する手が、一瞬、止まった気がした。 出すと決めてから、出したような感じだった。

「懐かしいな、って思って」

そう言いながら、写真フォルダから、一枚を、開いた。 選ぶ、というほどでもなかった。 たぶん、夕の中で、その一枚は、いつも見ている場所に、置いてあった。

スマホ越しの、ちょっと色あせた写真。 どこかから取り込んだのか、フィルムっぽい質感の写真だった。 写っているのは、幼い夕と、若い女性だった。

ふたりとも、稲荷坂の途中で笑っていた。 背景の塀と、夏みかんの木は、いまの目の前の景色とほぼ同じだった。

「お母さん」

「うん。たぶん、私が四つくらいのときです」

俺はスマホを受け取って、その写真を見た。 若い女性の笑い方を、見た。

——あ。

胸の奥で、何かが、すこしだけ動いた気がした。

写真の中の、お母さんの目の細め方。 口角のあがり方。 頬の輪郭。

写真の——封筒のなかの女性に、似ている気がした。

確信ではなかった。 スマホの画面は小さいし、写真は画質が荒い。 比べているフィルム写真も、今ここにはない。 「似ている気がする」というのは、たぶん俺の妄想かもしれなかった。

でも、似ているように、見えた。

5. 一拍

「どうかしました?」

夕が言った。 俺がスマホを見すぎていたんだろう。

「あ、いや」

俺は、たぶん、あいまいな笑いを浮かべた。

「お母さん、いまおいくつですか」

聞いてから、自分でも、なんでこのタイミングで聞いたんだろうと思った。 いや、わかっていた。 逆算したかった。

夕は、すこし首をかしげた。

「四十二です。なんで」

「いや、何でもないです」

四十二。 20年前なら、二十二。 若い、と言える年齢だ。 封筒の写真の女性も、たぶん、そのくらいに見えた。

何も言わずに、スマホを夕に返した。

夕は、それ以上聞かなかった。 聞かない、というか——たぶん、聞かないでくれた。

夕も、俺がふいに黙ったことには気づいていた。 でも、突っ込まなかった。 そういう、間の取り方を、するひとだった。

「行きましょうか」

夕がそう言って、坂を下り始めた。

6. 言えない

帰り道は、上りより、ずっと早かった。

下り坂は、しゃべらなくても、なんとなく前に進んでくれる。 それが、ありがたかった。 ありがたいと思っていることが、自分でも、ちょっと、後ろめたかった。

夕は、何も聞かなかった。 俺は、何も言わなかった。 ふたりの間で、かちっ、と何かが噛み合わない音が、たぶん、鳴っていた。 俺だけに聞こえる音だ。

商店街の入り口で、また「私、こっちなので」と夕が言った。

「ありがとうございました」と俺は言った。

「いえ」と夕は言った。

それから、すこし、夕は俺の顔を見た。 「いえ」のあとに、何かを言いかけて、やめた感じだった。 俺もそれに気づいた。 でも、聞き返すことができなかった。

家に帰って、机の上に写真を並べた。

13枚を、もう一度、ぜんぶ見た。 最後の1枚——遠くを見ている女性の顔——を、長いこと見た。

似ている、と思った。 スマホの中の、若いお母さんに。

確信は、まだなかった。 でも——たぶん、合ってる。

その日は、何も言えなかった。

でも、言わないといけない気がしていた。


次回「乱入」は2026年8月14日公開予定です。


📷 カメラの話

20年前のフィルムは、なぜ現像できたのか

蒼が手にした13枚の写真。封印されたまま二十年も経ったフィルムが、なぜちゃんと像を残していたのか。

フィルムの寿命は、保存環境によって大きく変わります。光を遮り、低温・低湿度で保管されたフィルムなら、数十年経っても十分に現像可能だと言われています。蒼の場合、カメラの中にずっと入りっぱなしだったわけですが、ボディが密閉されていたぶん、外気の湿度や直射日光からは守られていた——というのが、像が残った理由かもしれません。

それにしても、二十年。 誰かの夏が、暗闇の中で、ずっと「現像されるのを待っていた」と考えると、ちょっと不思議な気分になります。