YMO世代の気持ち -ノベル館-

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第8話「戻る」

夕日と漁業桟橋

Photo by Rafael Garcin (Unsplash)

1. 翌日

翌日、図書館に行った。

受付に夕はいなかった。 代わりに、田所さんが座っていた。 たぶん、ずっと前から夕の上司として働いている、五十代くらいの司書さんだ。 一度も話したことはなかったけれど、夕がよく「田所さんが」と話していたから、こちらは勝手に顔を覚えていた。

田所さんは、俺が入ってきたことに、たぶん、気づいていた。 気づいた上で、何も言わずに、本のラベル貼りを続けていた。 こっちもとくに用がないふりをして、二階の郷土資料コーナーに上がった。

写真集を、適当にめくった。 頭には何も入ってこなかった。

帰り際、田所さんに会釈した。 田所さんはこちらをちらっと見て、軽く頷いた。 何も聞かれなかったし、何も言われなかった。 でも、田所さんはたぶん、俺が誰だかを、もう知っていた。 夕が話したのか、ただ気づいていただけなのか、わからなかった。

2. 待つ

次の日も、夕はいなかった。 その次の日も、いなかった。

体調を崩したのかもしれない、と最初は思った。 でも、たぶん、違った。

健太は、二日泊まって、東京に帰っていった。 帰る前、駅のホームで、健太は言った。

「あの花火の夜のこと、俺は何も聞かないけど」 「うん」 「あんま、自分のせいにすんな」 「うん」 「した、よな」 「した」 「お前そういうとこある」

特急が来た。 健太はそれに乗って、手を振って、行ってしまった。

俺は駅から歩いて家に帰った。 帰り道、何度も、写真を渡したときの夕の顔を、思い出していた。

似ている、と言わなければ、夕はいまも、図書館にいた。 浜辺を一緒に歩いていた。 そういう、安全な日々が、続いていた。 俺は、それを、終わらせた。

写真に関わったことを、少し、後悔した。

すこし、と書いてしまうのは、たぶん嘘で、本当はけっこう、後悔していた。

3. LINE

四日目の夕方、あかりからLINEが来た。

夕が防波堤にいる

それだけだった。

ひとり?
ひとり
さっき見かけた
私は声かけてない
わかった

俺はサンダルをつっかけて、家を出た。 歩きながら、あかりにもう一度LINEを送った。

ありがとう
うん

ただの「うん」だった。 でも、あかりの「うん」は、たぶん、いつもの「うん」じゃなかった。

4. 防波堤

夕日が、ちょうど沈みかけていた。

防波堤の根元のところに、夕は座っていた。 あの花火の夜と、ほとんど同じ場所だった。

両膝を抱えて、海を見ていた。 白い半袖シャツに、ジーンズ。 足元はサンダル。 髪は、いつものように、後ろでひとつにまとめていた。

俺は、すこし離れたところで足を止めた。 そこから先に、行っていいかどうか、わからなかった。

夕が、こちらを見ないまま、言った。

「来ると思ってた」

俺は、たぶん、ふっと、息を吐いた。 吐いてから、なんで自分はいま、ホッとしているんだろう、と思った。 夕が、こちらに、なにかを言うつもりでいてくれていた。 それだけのことが、ちょっと、ありがたかった。

近づいて、夕の隣に腰を下ろした。 コンクリートが、太陽でぬるく温まっていた。

しばらく、ふたりで、海を見ていた。 何も言わなかった。 言わなくても、たぶん、よかった。

5. 父

「すみませんでした」

俺は、言った。

「謝らなくていいです」

夕は、海を見たまま、言った。

「あれは、たぶん、私の問題なので」

「いや」

「いいんです」

夕は、長く、黙った。 膝に置いた手が、すこしだけ、握り直された。

「お父さんのこと、死んだって聞いてました」

夕は、ぽつりと言った。

「幼いころに。たぶん、私が、覚えてないくらい小さいときに」

俺は、何も言えなかった。

「覚えてもないんで、悲しいとかも、本当はあんまり、わからないんです。 写真も、お母さんがあんまり見せてくれないし。 そういうものだ、って、ずっと思ってきました」

「うん」

「あの夜から、家で、お母さんを、よく見てたんです。 ご飯食べてる横顔とか。テレビ見てる時の手とか」

夕は、海のほうを、見たままだった。

「気づいたんです。 私、お母さんを、『お母さん』としてしか、見てこなかった。 ひとりの人としては、見てこなかった。 そう見ないように、たぶん、ずっと、してきた」

「うん」

「聞かないでいる、っていうのは、結局、知らないままでいる、ってことなんですよね。 二十年、私、それでよかったんです。 ふつう、そういうものだから、って」

夕は、すこし、息を吸った。

「でも」

「もし、生きてたなら——探したい気がします」

夕の声は、震えていなかった。 ただ、すこし、低かった。 低いだけ、なんだけど、それが、夕の中の、いちばん本当のところなんだろうと思った。

俺は、そのとき、自分でも、よくわからないうちに、口を開いていた。

「手伝います」

6. なんで

夕が、ようやく、こちらを見た。

夕日の最後の光が、ちょうど夕の顔を、横から照らしていた。 オレンジというよりも、もっと薄い、桃色みたいな光だった。 夕の目は、すこし潤んでいたかもしれない。 でも、たぶん、たぶん、ただの夕日のせいだ。

夕は、俺を、まっすぐ見て、言った。

「なんで」

その「なんで」は、責めている感じじゃなかった。 驚いているのとも、すこし違った。 ただ、純粋に、なんで? と、聞いていた。

俺は、口を、開いた。 何か答えなきゃ、と思った。 でも、すぐには、言葉にできなかった。

写真を現像したのが、自分だから——とか。 あなたに会わなかったら、ここまで来てなかったから——とか。 もう、ここまで来たら、ひとりで途中下車できないから——とか。

頭の中に、いろいろあった。 どれも、ちょっとずつ、本当だった。 でも、どれも、ちゃんとした答えに、なっていなかった。

俺は、口を、開きかけたまま、止まっていた。

夕は、急かさなかった。 ただ、待っていた。 夕の目は、夕日のせいで、すこし、ひかっていた。

たぶん、答えなきゃいけない問いだった。 たぶん、これに、ちゃんと答えられるかどうかが、これから先のぜんぶに関わる気がした。

俺は、息を、吸った。


次回「珊瑚」は2026年9月4日公開予定です。


📷 カメラの話

誰かをファインダー越しに見るということ

20年前、汐見の浜辺で、誰かがあの女性をフィルムで撮っていました。 13回シャッターを切るあいだ、撮るほうも、ずっと、その人を見ていたはずです。

ファインダーを覗くというのは、ただ被写体を構図に収める作業ではないと、フィルムカメラを使ったことがある人は言います。レンズ越しに、相手を、すこし長く、見ることになる。スマホみたいに「とりあえず連写で」がきかない分、一枚ごとに、相手のいまを、自分の目で受け止めてから、シャッターを切る。

13枚というのは、たぶん、13回、誰かをちゃんと見つめた、ということでもあります。