1. 心臓バクバク
初めての授業の日。
朝から、心臓がバクバクしてる。
鏡の前で、何度も身だしなみを確認した。
スーツ、OK。
髪型、OK。
でも、心の準備は全然OK じゃない。
「大丈夫、大丈夫...」
自分に言い聞かせながら、学校に向かった。
職員室に着くと、山田先生が声をかけてくれた。
「瀬良先生、今日初授業だよね。頑張って」
「は、はい。ありがとうございます」
「緊張してる?」
「...はい。すごく」
「大丈夫。最初はみんなそうだから」
山田先生の笑顔に、少しだけ落ち着いた。
でも、岩崎先生とすれ違った時、また緊張が戻ってきた。
「準備はできているか」
「は、はい」
「そうか」
それだけ言って、岩崎先生は去っていった。
相変わらず、怖い。
2. サラ先生誕生
一時間目。
三年二組の教室。
「おはようございます」
教室に入ると、生徒たちが元気に挨拶してくれた。
「おはようございまーす!」
「サラ先生だ!」
「サラ先生?」
え、サラ先生?
「瀬良だから、サラ!」
「英語っぽい!」
「ネイティブっぽい!」
生徒たちが笑ってる。
なるほど、瀬良(せら)→サラ(Sara)ってこと。
「まあ、確かにシアトルにいた時は、サラって呼ばれてたけど...」
「え、先生、アメリカにいたの!?」
「すごい!」
「英語ペラペラ?」
質問攻め。
ちょっと待って、授業始められない。
「えっと、その話はまた今度。授業を始めましょう」
なんとか教科書を開かせた。
3. 早口の失敗
授業が始まった。
「今日は、過去形の復習をします」
緊張してる。
声が上ずってる。
分かってるのに、止められない。
「過去形は、動詞の形が変わります。例えば、goはwentに...」
早口になってる。
自分でも分かる。
でも、止まらない。
「規則動詞は-edを付けて、不規則動詞は形が変わって...」
生徒たちの顔を見る。
ぽかんとしてる。
まずい。
ついてこれてない。
「先生」
声がした。
難波蓮くんだ。
「もう一回、ゆっくり説明してもらえますか」
「え」
「俺、ちょっと分からなくて」
蓮くんが手を挙げてる。
他の生徒も、うんうん頷いてる。
「あ、ごめんね。早口だった?」
「はい。ちょっと」
正直だな。
でも、助かった。
「じゃあ、もう一回、ゆっくり説明するね」
深呼吸。
落ち着け、私。
「過去形には、二種類あります。規則動詞と、不規則動詞」
今度は、ゆっくり話した。
黒板に書きながら。
生徒たちの顔を見ながら。
「規則動詞は、動詞の後ろに-edを付けます。例えば、playはplayedになります」
生徒たちが頷いてる。
良かった。
伝わってる。
4. 蓮くんの助け
授業が終わった。
「ありがとうございました」
生徒たちが挨拶して、休み時間になった。
「先生、分かりやすかったです」
蓮くんが話しかけてきた。
「最初は早かったけど、後半はちょうど良かった」
「...ありがとう。助けてくれて」
「え?」
「質問してくれたから、気づけた」
蓮くんが少し照れた顔をした。
「別に、普通に分からなかっただけですよ」
「でも、助かった。ありがとう」
「...どういたしまして」
蓮くんが笑った。
「先生、シアトルにいたんですよね」
「うん。小学二年から中三の冬まで。高校受験に間に合うように帰ってきたの」
「すごいですね。どんな感じでした?」
「うーん、楽しかったよ。学校も自由で、友達もたくさんできて」
「へえ」
「日本とは違う部分も多かったけど」
「例えば?」
「例えば...進路とか。向こうは、もっと自由だった」
「自由?」
「うん。大学に行く人もいれば、すぐ働く人もいるし。ギャップイヤーって言って、旅行する人もいるし」
「へえ。日本と違いますね」
「そうだね」
蓮くんが少し考え込んだ。
「先生は、なんで日本に戻ってきたんですか」
「お父さんの仕事が終わったから」
「そうじゃなくて。なんで、日本で先生になったんですか」
「...」
鋭い質問だな。
「シアトルで学んだことを、日本でも伝えたかったから」
「学んだこと?」
「道は一つじゃないってこと」
「...」
「色々な生き方があるってこと。それを、生徒に伝えたくて」
蓮くんが、じっと私を見た。
「難波くんは、将来の夢とかある?」
「...まだ、決まってないです」
少し、表情が曇った気がした。
聞いちゃいけなかったかな。
チャイムが鳴った。
「あ、次の授業だ。先生、また」
「うん。また」
蓮くんが席に戻っていった。
何か、気になる。
でも、何が気になるのか分からない。
5. 千里の道も一歩から
職員室に戻った。
疲れた。
緊張で、どっと疲れた。
椅子に座って、ため息をついた。
「お疲れ様」
山田先生が来た。
「どうだった?」
「...最初、早口になっちゃって。生徒に『もう一回』って言われました」
「あら」
「情けないです」
「そんなことないよ」
山田先生が笑った。
「最初はみんなそう。私も新人の時、早口で全然伝わらなかった」
「本当ですか」
「本当本当。緊張するもんね」
「はい...」
「でも、気づいてやり直せたんでしょ?それが大事」
「...はい」
「大丈夫。少しずつ慣れていくから」
山田先生の言葉が、温かかった。
「瀬良先生」
声がした。
岩崎先生だ。
「は、はい」
「初授業、どうだった」
「えっと、最初は失敗しました。早口になってしまって」
「そうか」
「...すみません」
「謝る必要はない」
岩崎先生が、じっと私を見た。
「『千里の道も一歩から』だ」
「え」
「最初の一歩を踏み出した。それだけで、お前は前に進んでいる」
「...」
「失敗を恐れるな。失敗から学べ」
岩崎先生は、そう言って去っていった。
千里の道も一歩から。
厳しい人だと思ってた。
でも、今の言葉は、励ましだった。
...のかな?
「ほらね」
山田先生が笑った。
「岩崎先生、ああ見えて優しいでしょ」
「...そうなんですかね」
「そうだよ。不器用なだけ」
そうなのかな。
よく分からない。
でも、少しだけ、心が軽くなった。
6. 反省ノート
放課後。
今日の授業の反省をノートに書いた。
「早口にならない」
「生徒の顔を見る」
「ゆっくり話す」
基本的なことばかり。
でも、それができなかった。
「明日は、気をつけよう」
自分に言い聞かせる。
ふと、窓の外を見た。
校庭に、誰かいる。
南雲くんだ。
今日も、木の下で寝てる。
「また昼寝...」
授業には全然出てこなかった。
どういう生徒なんだろう。
気になるけど、今日は声をかける勇気がない。
また今度にしよう。
7. コンビニ弁当の夜
帰り道、コンビニに寄った。
「お弁当と...お茶と...」
一人暮らしの食事。
毎日コンビニ。
料理、できないわけじゃないけど。
疲れてると、作る気力がない。
「520円になります」
「はい」
お弁当を受け取って、アパートに帰った。
部屋に入ると、静か。
誰もいない。
当たり前だけど、寂しい。
「ただいま」
誰もいないのに、言っちゃう。
お弁当を食べながら、今日のことを振り返った。
初授業、失敗した。
でも、気づいて修正できた。
蓮くんが助けてくれた。
岩崎先生の言葉を思い出す。
「千里の道も一歩から」
一歩、踏み出せたかな。
まだ分からない。
でも、明日も頑張ろう。
8. 大家さんの煮物
大家さんが、ドアをノックした。
「瀬良さん、いる?」
「は、はい」
ドアを開けると、七十代くらいのおじいさん。
このアパートの大家さんだ。
「これ、おすそ分け」
「え」
タッパーに入った煮物。
美味しそう。
「うちの婆さんが作りすぎたんでね」
「いいんですか」
「若い先生が、コンビニ弁当ばっかりじゃ体壊すよ」
「...ありがとうございます」
大家さんが笑った。
「仕事、どう?」
「今日から授業が始まりました」
「そうかそうか。大変だろうけど、頑張りなさい」
「はい」
「困ったことがあったら、言いなさいよ」
「...ありがとうございます」
大家さんが去っていった。
煮物を食べた。
美味しい。
温かい。
目頭が熱くなった。
一人暮らしは寂しい。
でも、周りに優しい人がいる。
それだけで、頑張れる気がする。
9. エミリーからの言葉
夜、エミリーにメッセージを送った。
『My first class was a disaster. I talked too fast and students couldn't understand.』
返事が来た。
『Oh no! But you noticed and fixed it, right?』
『Yes. A student helped me.』
『See? That's what matters. You'll get better!』
『I hope so.』
『You will. Trust me.』
エミリーの言葉に、励まされた。
『A senior teacher told me "A journey of a thousand miles begins with a single step."』
『That's nice! Japanese proverb?』
『Yes. He's strict but maybe kind.』
『Give him a chance. Sometimes strict teachers are the best.』
『Maybe.』
スマホを置いて、天井を見上げた。
千里の道も一歩から。
今日、一歩踏み出した。
失敗したけど、一歩だ。
明日は、もう一歩。
そうやって、少しずつ進んでいけばいい。
目を閉じた。
明日も、頑張ろう。
一歩ずつ、前に進もう。
それしか、できないから。
でも、それでいい。
教師になって、二日目が終わった。
次回「郷に入っては郷に従え」は2026年4月15日(水)公開予定です。