YMO世代の気持ち -ノベル館-

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水曜日を待つ人たち -第1話「立ち止まる理由」-

 三月十一日、水曜日。

 午後七時を過ぎたオフィスで、芹沢明日香はまだ画面を見つめていた。

 「企画書(修正版・第三稿)」というファイル名が、今日三度目の会議での言葉を思い出させる。「コンセプトが弱い」「もう一回考えてきて」——上司の言葉は短かったが、それだけに逃げ場がなかった。三ヶ月かけて積み上げてきた企画が、十五分で終わった。明日香は二十七歳で、コピーライターになって五年目で、こういう夜には慣れているはずだった。でも慣れていなかった。

 帰り道、足は自然と遠回りを選んでいた。

 商店街のアーケードを抜けた先、見慣れない路地の角に灯りが見えた。「まちの図書室」と書かれた、少し傾いた木の看板。こんな時間に開いているのか、と思ったが、近づくと「本日の閉館時間を過ぎました」という札が下がっていた。

 それでも、外に置かれた古いベンチに腰を下ろしてしまった。立っている体力が、もうなかったのだ。

 「閉館です、と一応言いましたが」

 声がした。入口から、若い男が顔を出していた。エプロン姿で、表情は穏やかだが、何かをじっと観察するような目をしていた。

 「すみません、すぐ立ちます」

 「いえ、ベンチは誰でも使えますよ。よかったらどうぞ」

 少し間があって、「お茶でも」と彼は付け加えた。断る理由が思い浮かばなかった。

 紙コップに入ったほうじ茶は、温かかった。明日香はそれを両手で包んで、ベンチの木目を見つめた。

 「お仕事帰りですか」

 「……失敗しました。大事なプレゼン」

 なぜこんな見知らぬ人間に話しているのかわからなかった。でも止まらなかった。

 「三ヶ月考えた企画を、十五分で終わらせられて。私って、そんなに急いで何をしてたんだろうって。次の案件も、もう来週から始まるんですけど」

 管理人は何かを言うでもなく、空を見上げた。路地の先に、細い月が出ていた。

 「急ぎすぎると、大事なものを置いていきますよ」

 「……何をですか」

 「さあ。人によって違うと思います」

 意味深なのか、ただ気の利いたことを言っているだけなのか。でも、その言葉は胸に刺さった。さあ、という言い方が、妙に正直だと思った。

 明日香が立ち上がろうとすると、彼は言った。

 「ここは毎日開けています。朝も夜も」

 「……休みは?」

 「特にないです。疲れるということが、あまりないので」

 笑っているのか、そうでないのかわからない顔で、彼はそう言った。明日香はなぜかそれ以上聞けなかった。

 二十分後、明日香は帰路についた。


 翌朝の通勤電車は、いつも通り混んでいた。

 ドア付近に立っていた明日香の足元に、何かが落ちた。厚い参考書だった。隣に立っていた男子高校生の鞄から滑り出たらしく、拾って渡そうとしたとき、表紙の裏が目に入った。

 ボールペンで書き込まれた一行。

 「道は一つじゃない」

 「ありがとうございます」と手を伸ばしてきた高校生に、明日香は思わず聞いた。

 「この言葉、どこで書いたの?」

 「え、あ……英語の先生に言われた言葉で。なんか好きで書いてました」

 「そうなんだ」

 電車がホームに滑り込んだ。人が動いた。会話はそこで終わった。

 でも、明日香の頭の中で、昨夜の言葉と今朝の言葉が静かに重なった。

 急ぎすぎると、大事なものを置いていく。

 道は一つじゃない。

 気づかないうちに、どこかに置いてきてしまったものが、あるのかもしれない。コピーライターとして書きたかった言葉が、たとえば。

 改札を抜けながら、明日香はスマホをポケットにしまった。今日は少しだけ、急ぐのをやめてみようと思った。


 

2026年4月1日(水)開幕

『水曜日の朝、信号が青になるまで』 毎朝6時更新・全365話

『ケセラ瀬良なんです! 〜二三歳、先生はじめました〜』 毎週連載

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