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天声人誤 第1回 はじめに、誤っておく

天声人誤 ——ある誤読者の手記

 午前六時の飽留野は、まだ誰にも誤解されていない。

 山から下りてくる空気は冷たく、国道はまだ空いている。ヘルメットを被ると、世界から音が半分持っていかれる。残った半分で物事を判断することになるのだが、俺の場合、その半分がだいたい間違っている。

 中村悟。四十七歳、A型、独身。東京都飽留野市に住み、この街のタウン誌で記者をしている。記者といっても編集部は三人だ。編集長が社長を兼ね、デザイナーが一人いて、あとは俺。取材も撮影も原稿も、たいてい俺が一人で片づける。名刺には「記者」と刷ってあるが、実態としては「なんでも屋」の四文字のほうが正しい。

 飽留野という字面に引っかかった方は、勘がいい。この街はもともと「秋留野」と書いた。市制施行の届出で役所の誰かが字を書き違え、誰も気づかないまま公式の表記になったと伝えられている。つまりこの街は、誤記から生まれている。裏に山を背負い、表に幹線道路が走る、人口十二万の、中途半端に便利な土地だ。俺はここが気に入っている。生まれた瞬間からすでに間違っている場所というのは、そうそうない。

 その市役所が数年前、街の標語を作った。

 「飽きない街、飽留野」

 誰も本気にしていない。駅前のラックに置かれた俺たちのタウン誌にも、毎号この標語が入っている。入れろと言われているからだ。

 「中村くん、来月の特集だけどね」

 編集長が俺の机に企画書を置いた。市の標語をめぐる四ページ。悪くない題材だ。

 「はい、やります」

 「あと、君の担当ぶん、六ページに増えたから」

 「なんでやねん」

 反射である。俺は都下の生まれで、都下で育ち、関西には親戚の一人もいない。ただ明石家さんまが好きだというだけで、突っ込むときと、駄洒落を言うときにだけ、これが勝手に出る。しかも出てくるのは本物の関西弁ではない。テレビの中の関西弁だ。いま実際に大阪で使われているかどうか、俺は知らない。

 「……いや、なんでですか」

 言い直した。編集長は顔も上げずに「予算」とだけ答えた。この人は俺の言葉づかいについて、この十年、一度も触れたことがない。

 企画書をめくりながら、俺はその場で閃いた。

 あれは掛詞だ。

 うちの駐車場には、乗らない車が一台ある。

 スバルのヴィヴィオRX-R。六百六十ccの、三十年落ちの軽自動車である。かつてサファリラリーを走った血筋の車だと説明したところで、たいていの人は「ああ、古い軽ね」と言う。それでいい。分かる人にだけ分かればいいと言うつもりはないが、実際、分からない人には本当に分からない。

 だから乗らない。大事にしすぎて出さない。日々の足はヤマハのトリシティで、雨の日と冬の凍った朝だけ、俺は歯を食いしばってヴィヴィオを出す。塩の撒かれた道にあれを走らせる屈辱については、いつか一回ぶん書く。

 なぜこんなものを書き始めたのか。

 仕事で書けることには限りがある。タウン誌に「市の標語は掛詞ではないか」などと書けない。

 それに俺は、世の中を見ているとだいたい何かに突っ込みたくなる質だ。ニュースを開けば一日に三度は声が出る。家で一人のときは、実際に出している。ただし言ってはいけない場面というものがあって、葬式で突っ込む人間にはなりたくはない。四十七にもなると、その判断だけは口より一瞬早く間に合ってしまう。

 飲み込んだそれは、どこにも行かない。腹の底に溜まる。駄洒落も同じだ。

 ここは、その供養の場である。

 だからここには何でも書く。世の中で起きたこと、この街で起きたこと、走った先で見たもの。ただし先に断っておくが、俺の書くことはたいてい少しずつ間違っている。天の声とやらは、俺のところへ届くまでに必ずどこかで歪む。歪んだまま書く。訂正はしない。

 はじめに、誤っておく。

 標語の件だが、俺はまだ諦めていない。

 飽きない街、飽留野。あれは駅前の商店街を見てから作ったに決まっている。そう思って市の広報に電話をかけたら、「いえ、特にそういう意図は」と、たいへん丁寧に否定された。

 それでも俺は言った。

 「そらもう、あきないほうがおかしいでっしゃろ」

 電話の向こうが、しばらく黙った。

 言うつもりはなかった。寄る年波には勝てない。

※この文章はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。

この連載について

『天声人誤 ——ある誤読者の手記』は、東京都飽留野市(架空)に住むタウン誌記者・中村悟が 書いている、という体裁の不定期連載です。

世の中の出来事、街の日常、走った先で見たもの——何でも扱いますが、語り手はそのすべてを 少しずつ読み違えます。実在の出来事に触れた回では、参照した記事へのリンクを末尾に置いています。

更新は不定期。ネタが溜まったときに書きます。

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