
「中村くん、それ、うちでやることかな」
編集長がそう言ったので、俺は手を止めた。
*
その朝、俺は企画書を一枚書いていた。『みいちゃんと山田さん』という漫画のアニメ化に、批判が集まっている件である。
七月二十六日に発表され、放送は二〇二七年。二〇二四年から連載されて累計二百八十万部。二〇一二年の歌舞伎町が舞台で、路上売春や薬物が出てくる。発表の直後から、社会問題をポップに描かないでほしい、知的障害や発達障害への偏見を助長するのではないか、という声が上がった。発表された日が、津久井やまゆり園の事件から十年の日でもあった。
翌日、製作委員会が声明を出している。真摯に受け止める、専門家の助言を得ながら、適切なレーティングや注意喚起を記載して慎重に制作を進める、と。
俺は企画書に「表現と配慮のあいだ」という見出しを付けた。我ながら悪くないと思った。
*
「読んだの、その漫画」
編集長が聞いた。
「……いえ」
「じゃあ何を書くの」
答えられなかった。
この人は俺の言葉づかいについて十年間ひとことも言わない人だが、仕事の話になると急に短くなる。短い言葉ほど、避けようがない。
「うちは飽留野のタウン誌だよ。市の標語を毎号そのまま載せてるところだ」
「はい」
「そういうところが、こういう話に一枚噛むと、たいてい誰かを踏むよ」
*
企画書は捨てた。
捨ててから、自分が何をしようとしていたのかを考えた。俺は、あの件について何か言いたかったわけではない。言えそうな気がしただけだ。投稿を三十ほど読んで、輪郭を知った気になって、四ページぶんの見出しを思いついた。それだけのことだった。
この連載で毎回やっているのも、同じ手つきである。分からないものを分かった気になって、勢いで書く。いつもはそれで笑える。
今回は笑えなかった。
*
夕方、編集長が缶コーヒーを机に置いていった。何も言わずに。
あの人は、たぶん俺より先に、踏んだことがあるのだと思う。
参照した記事
- 『みいちゃんと山田さん』製作委員会、アニメ化への批判受け異例の声明 専門家の助言を得て制作へ - KAI-YOU(KAI-YOU / 2026-07 / 参照 2026-07-29)
※この文章はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。
この連載について
『天声人誤 ——ある誤読者の手記』は、東京都飽留野市(架空)に住むタウン誌記者・中村悟が 書いている、という体裁の不定期連載です。
世の中の出来事、街の日常、走った先で見たもの——何でも扱いますが、語り手はそのすべてを 少しずつ読み違えます。実在の出来事に触れた回では、参照した記事へのリンクを末尾に置いています。
更新は不定期。ネタが溜まったときに書きます。
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