
「中村くん、夏の特集だけどね」
この人が企画書を持ってくるときは、たいてい俺の八月が決まっている。
「心霊スポット、四回でやって。週一」
「はい」
「行くのは君ね」
「はい」
断る理由が思いつかなかった。飽留野には山があり、旧道があり、廃道がある。心霊スポットと呼ばれている場所なら、いくらでもある。
もう一つ、断らなかった理由がある。俺は幽霊を信じていない。 信じていない人間が行くぶんには、何も減らない。そう考えた。
*
一か所目は、旧・不動隧道にした。
新しい道ができたときに廃道になった、旧道のトンネルである。飽留野で心霊スポットといえばまずここが出る。地元の高校生が肝試しに来る。夏になると必ず誰かが「出た」と言う。
念のため書いておくと、このトンネルに何があったのかを、誰も説明できない。事故があったという人がいる。戦時中に何かあったという人もいる。市史を三時間めくったが、それらしい記述は一行も出てこなかった。
つまり、いわくが無い。
いわくが無いのに、みんなが知っている。この時点で俺は、この取材はいけると思った。幽霊よりも、そちらのほうが面白いからである。
*
夜十時、トリシティで旧道へ入った。
国道から折れて二百メートルほどで、例の冷たい空気の層に入る。夏の夜でも、ここだけは腕の外側が先に気づく。そこからさらに登ると、道は舗装が割れはじめ、両側の草が背丈を越え、やがてヘッドライトの先に、黒い口が現れる。
止めた。エンジンを切った。
音が消えた。
……これは、なかなかのものだ、と思った。虫の声すらしない。厳密には聞こえているはずなのだが、耳がそれを音として拾わなくなる。自分の呼吸だけが、ヘルメットの中で妙に大きい。
俺はメモ帳を出した。「静寂、圧」と書いた。我ながらいい言葉だと思った。
それから、一歩も動かなかった。
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誤解のないように書いておくが、怖かったのではない。
トンネルの中は崩落の危険がある。実際に入り口には柵がある。記者が無断で立ち入るのは筋が通らない。取材とは節度である。俺は節度を守った。
守ったまま、二十分立っていた。
その間、俺が何をしていたかというと、引き返す理由を探していた。写真はもう撮った。空気の質も書いた。あとは帰るだけである。帰るだけなのだが、背中を向ける、という動作だけがどうしても始まらない。
人間は前へ進むより、背中を向けるほうが難しい。四十七年生きてきて、初めて知った。
*
結局、何も起きなかった。
物音ひとつしなかったし、写真にも何も写っていなかった。帰ってから拡大して隅々まで見たが、草と、割れた舗装と、黒い口だけである。
だから記事としては、こう書くしかない。旧・不動隧道では、何も起きませんでした。
ただ、あの二十分について、俺には別の説明がある。
あそこは、たぶん何かが出る場所ではなく、人が動けなくなる場所なのだ。理由は分からない。分からないが、動けなかった人間が「何かいた」と言い出すのは、順序として自然ではないか。誰かが最初にそう言い、次の誰かがそれを聞いてから行き、動けなくなり、また言う。
いわくは、後から生える。
……という説を、俺は編集長に話した。編集長は「四回目に書きなよ、それ」と言った。初回で結論を出すな、ということらしい。
*
最後に一つだけ、正直に書いておく。
あの二十分、俺は本当に一歩も動けなかった。
不動隧道の前で、見事に不動であった。
名前のとおりというのは、こういうことを言うのだと思う。
※この文章はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。
この連載について
『天声人誤 ——ある誤読者の手記』は、東京都飽留野市(架空)に住むタウン誌記者・中村悟が 書いている、という体裁の不定期連載です。
世の中の出来事、街の日常、走った先で見たもの——何でも扱いますが、語り手はそのすべてを 少しずつ読み違えます。実在の出来事に触れた回では、参照した記事へのリンクを末尾に置いています。
更新は不定期。ネタが溜まったときに書きます。
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