
一ドル百六十三円になった日のことを、書いておく。
七月二十一日、ニューヨークの市場で一時、一ドル百六十三円二十四銭をつけた。約三十九年七か月ぶりの水準だという。中東情勢が急速に緊迫し、いわゆる「有事のドル買い」が優勢になった結果らしい。
三十九年七か月前というと、俺は七歳である。円がいくらだったかは覚えていない。
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その日、俺は二か所を回った。
午前は、例の菓子屋である。創業六十年、数年前に都心の大手に買われた、あの会社だ。専務は前より痩せて見えた。
「小麦も油も、上がりっぱなしですよ」
輸入品である。円が安ければ、そのぶん高く買うことになる。値上げは親会社の決裁がいる。決裁は東京にあり、東京は半年待たせる。
「うちは、待ってるあいだに利益が溶けるんです」
俺は「そらそうですわ」と言った。本心である。
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午後は、市の外れの金属加工の工場に行った。従業員は十二人。作っている部品の七割が、最終的に海を渡るのだという。
こちらの社長は、機嫌がよかった。
「今年は数字がいいですよ。円が安いですから」
同じ円が安いという事実で、午前と午後の顔がまるで違う。俺はここでも「そらそうですわ」と言った。これも本心である。
ただし社長は、続けてこうも言った。
「ただね、うちの材料も輸入なんですよ。それと、人がいない」
数字はいい。だが手放しでは喜べない。喜べないが、円高よりはいい。前に円が高かった頃、この工場は本当に危なかったのだそうだ。
「あのときは、海の向こうに工場を移す話が出ましてね」
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帰ってから、ニュースを見た。
どの見出しにも、片方の顔しか映っていなかった。
円安ショック。家計を直撃。三十九年ぶり。——間違ってはいない。午前に会った専務にとって、これは全部本当のことである。
だが午後の社長にとっては、そうではない。あの人にとって、これは十二人の給料が出る相場である。
同じ数字に、二つの顔がある。報道はいつも、そのうち片方だけを大きく映す。 円が安ければ家計を、円が高ければ工場を。どちらのときも、映っていないほうの人はちゃんとそこにいる。
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と、ここまで書いたところで、円が動いた。
七月三十日の夕方、政府と日銀が円買いの介入をした。三か月ぶりだという。円は一時、五円ほど戻した。翌日には百六十円台に押し戻されたが、月が変わったいまは百五十円台にいる。
驚いたのは、その翌日である。アメリカの財務省が、複数の銀行に「今日、円買い介入があるかもしれない」と伝えた。事前に予告するのは異例なのだそうだ。
「言うてもうたやん」
声が出た。ああいうものは黙ってやるから効くのだと、俺はずっと思っていた。不意打ちである。予告する不意打ちは、不意打ちではない。
……いや、言うことで効かせる、という考え方があるのだろう。身構えさせて、動かせなくする。俺の知っている喧嘩とは違うが、たぶんそちらのほうが賢い。
ともあれ、円は少し戻った。菓子屋の専務は、ほんの少し息がつけたはずである。そして午後の社長は、ほんの少し青くなったはずである。
同じ一つの介入で、また二つの顔が動いた。
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というわけで、俺は結論を出した。
円安も円高も、両方悪い。
これでいくと決めた。円が安ければ誰かが泣き、高ければ別の誰かが泣く。だったら悪いのは円のほうである。上がるな。下がるな。そこにいろ。
考えてみれば、政府がやったのも、つまりはそれである。あちらは実弾を使ってやっている。俺は口で言っただけである。
我ながら、明快な結論だと思う。
ちなみにこれを編集長に話したら、「経済の記事は君に任せないでおくね」と言われた。
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ところで、面白いことに気がついた。
この夏、ポテトチップスの袋が白黒になった。インクの原料が中東から来ていて、手に入らなくなったからである。
今日の円安も、中東である。
遠いところで起きた一つのことが、袋の色と、円の値段と、菓子屋の小麦と、十二人の給料を、全部いっぺんに動かしている。世の中はつながっている、というやつだ。
つながっているのは分かった。分かったが、俺の財布の中には今日も千円札が二枚しかない。
円が安かろうが高かろうが、俺には縁がない。
……こういうことを言うから、経済の記事を任せてもらえないのだと思う。
参照した記事
- 中東情勢の緊迫化でドル円は163円台へ~為替介入の有無を探る | 三井住友DSアセットマネジメント(三井住友DSアセットマネジメント / 2026-07-22 / 参照 2026-07-31)
- 「不意打ち」介入で揺れる円、日銀は金利据え置き 市場はこうみる - 日本経済新聞(日本経済新聞 / 2026-07-31 / 参照 2026-08-02)
- 米財務省も円買い介入示唆、異例の予告「複数の銀行に伝達」 - 日本経済新聞(日本経済新聞 / 2026-07-31 / 参照 2026-08-02)
※この文章はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。
この連載について
『天声人誤 ——ある誤読者の手記』は、東京都飽留野市(架空)に住むタウン誌記者・中村悟が 書いている、という体裁の不定期連載です。
世の中の出来事、街の日常、走った先で見たもの——何でも扱いますが、語り手はそのすべてを 少しずつ読み違えます。実在の出来事に触れた回では、参照した記事へのリンクを末尾に置いています。
更新は不定期。ネタが溜まったときに書きます。
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