
駅前で財布を拾った。
黒い二つ折りで、券売機の下に落ちていた。中を検めるのは気が引けたが、身元が分かるものがあるかもしれない。開けたら、紙幣が何枚か入っていた。数えていない。数えたら負けだと思った。
交番に届けた。
*
書類を書いていると、若い巡査が世間話のように言った。
「最近、多いんですよ。落とし物」
外国の方のものも増えている、という話だった。
俺は、なるほどと思った。やはりそうか、と思ったのである。
このところ、外国から来た人が日本で財布を落とした、という話をよく聞く。そして、たいてい戻ってくる。感心した、日本はすごい、という美談として流れてくる。
ということは——外国の人は、よく落とすのだな。
慣れない国で、荷物が多くて、注意が散る。そういうことだろう。俺は勝手に納得して、帰った。
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納得したついでに、調べた。悪い癖である。
警視庁の数字が出ていた。二〇二五年の一年間に、東京都内で警察に届けられた落とし物・忘れ物は——
四百五十三万八千二百四十四件。
過去最多だという。前の年より三パーセント増えている。
四百五十三万件。東京都の人口が千四百万人ほどだから、都民三人に一人が、年に一度は何かを落としている計算になる。
落としているのは、外国の人だけではなかった。
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もっと驚いたのは、現金である。
届けられた現金は、四十五億八百八十二万円。これも過去最多。
四十五億円が、道に落ちていたことになる。
しかも、そのうち——
- 約三十二億三千万円が、持ち主に返っている(およそ七割)
- 約五億九千万円が、拾った人のものになった
- 約六億八千万円は持ち主が現れず、東京都の収入になった
拾った人に、五億九千万円。
夢のある数字である。俺が今日届けたぶんも、持ち主が現れなければ、この列に並ぶ。並ばれても困るが。
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ついでに書いておくと、届けられた落とし物でいちばん多いのは、証明書類が約八十二万点だという。
運転免許証、マイナンバーカードの類である。
日本人は、自分が誰であるかを証明する紙を、年に八十二万回落としている。
誤読者の連載としては、ここで何か気の利いたことを言うべきなのだろうが、思いつかなかった。多すぎて言葉が出ない。
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さて、最初の話に戻る。
外国の人はよく落とすのか。
二〇二五年に日本へ来た外国からの旅行者は、約四千二百六十八万人。前の年が三千六百八十七万人だったから、一年で六百万人近く増えている。過去最高である。
母数が、増えている。
増えれば、落とす人も増える。当たり前の話だった。
そして、たぶんこちらが本当のところである——
戻ってくるから、話になる。
落として、そのまま消えたなら、誰も語らない。悔しいだけである。戻ってきたから「日本はすごい」という話になり、それが海を渡って、俺の耳に届く。
俺が聞いていたのは「外国人がよく落とす話」ではなかった。「日本では戻ってくる話」だった。
落とす人の話だと思って聞いていたが、あれは全部、拾う人の話だったのである。
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もう一つ、面白い研究を見つけた。
二〇一九年に『サイエンス』に載ったもので、四十か国・三百五十五の都市に、一万七千個以上の財布をわざと置いてくる、という壮大な実験である。
半分には現金を入れ、半分には入れなかった。
結果は、直感と逆だった。
現金が入っている財布のほうが、届けられる率が高かった。
しかも、金額が大きいほど届けられやすい。
……これは、分かる気がする。俺も今日、中を数えなかった。数えてしまったら、あの財布は「拾い物」ではなく「金額」になる。そうなると、届けるのが急に難しくなる。
人は、たぶん、得をしたくないのではない。自分がそういう人間だと思いたくないだけである。
*
ところで、東京都は去年、落とし物で六億八千万円を得ている。
持ち主が現れなかったぶんである。合法だし、そういう決まりなのだが、都の歳入の内訳に「落とし物」が並んでいるのを想像すると、少し可笑しい。
都の財政としては、なかなかの拾い物である。
……いや、これは言い方が悪かった。
参照した記事
- 東京の落とし物:2025年は過去最高の現金45億円が警察に届く | nippon.com(nippon.com / 参照 2026-08-09)
- Civic honesty around the globe | Science(Science 365:70-73, 2019 / 参照 2026-08-09)
- 【図解】訪日外国人数、2025年は年間4200万人超え、2019年比で1000万人増、12月単月は同月過去最多も3.7%と微増(直近10年の推移グラフ付き)|トラベルボイス(観光産業ニュース)(トラベルボイス / 2026-01-21 / 参照 2026-08-09)
※この文章はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。 引用した統計と研究は、上に挙げた資料によります。
この連載について
『天声人誤 ——ある誤読者の手記』は、東京都飽留野市(架空)に住むタウン誌記者・中村悟が 書いている、という体裁の不定期連載です。
世の中の出来事、街の日常、走った先で見たもの——何でも扱いますが、語り手はそのすべてを 少しずつ読み違えます。実在の出来事に触れた回では、参照した記事へのリンクを末尾に置いています。
更新は不定期。ネタが溜まったときに書きます。
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