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天声人誤 第23回 無反応

天声人誤 ——ある誤読者の手記

 夜中に原稿を書いていて、腕を刺された。

 ぴしゃりとやったが、逃げられた。刺されたところが赤く小さく盛り上がって、少しかゆい。かいた。一時間ほどで、何ごともなかったように引いた。

 ……こんなものだったか、と思った。

 子どものころは、こうではなかった。

 夏休みに刺されると、翌日に腫れた。刺された点を中心に、ぱんぱんに膨れる。水ぶくれになったこともある。母親に「かくな」と言われ、かいて、怒られた。ひざの裏あたりを刺されると三日は不機嫌だった。

 いまは一時間で済む。

 年を取って鈍くなったのだろう、と俺は思った。

 そういえば、最近こんな話も聞いた。近ごろの子は蚊に刺されないから、免疫が弱くなっている。なるほど、そういうものかもしれない。俺のこれも、その仲間だろう。

 ……と、ここまで納得したところで、いちおう調べた。近ごろ、決めつけて書きかけて痛い目に遭っているからである。

 まず、大前提が違っていた。

 あのかゆみは、免疫が働いている証拠である。

 蚊は血を吸うときに唾液を注ぐ。それに対して体が起こすアレルギー反応が、赤みであり、腫れであり、かゆみである。刺されて何ともないというのは、免疫が弱いのではなく、反応をやめたということだった。

 皮膚科の先生の監修した記事に、年代ごとの変化が出ていた。

  • 新生児・乳児無反応(蚊の唾液成分に、まだ免疫がない)
  • 幼児期〜青年期 … 遅延型だけ → やがて遅延型と即時型の両方
  • 壮年期即時型だけ
  • 老年期無反応

 即時型は、小さな腫れとかゆみが一、二時間で治まるもの。遅延型は、翌日以降に腫れやかゆみが出て、大きく腫れたり水ぶくれになったりするもの。

 俺のひざの裏の三日間は、遅延型だったわけである。そしていまの一時間は、即時型である。

 鈍くなったのではない。段階が進んだのだった。

 この表を眺めていて、俺は妙なことに気づいた。

 いちばん上と、いちばん下が、同じ言葉である。

 新生児は無反応。老年期も無反応。

 どちらも「刺されても、なんともない」。見た目はまったく同じである。

 だが、理由が正反対だった。

  • 赤ん坊が反応しないのは、まだ何も知らないから
  • 年寄りが反応しないのは、もう覚えてしまったから

 同じ顔をした二つが、両端に置いてある。知らないから静かなのか、知り尽くして静かなのか、外からは見分けがつかない。

 これは蚊の話ではない気がしてきたが、話を戻す。

 もう一つ、はっきり書いてあったことがある。

 段階の進み方には個人差が大きく、年齢よりも「刺された頻度」と体質で決まる。

 ……ということは、だ。

 最初に聞いた話——近ごろの子は刺されないから免疫が弱い——を、この理屈に当てはめてみる。

 刺される回数が少なければ、段階は進まない。段階が進まなければ、遅延型のままである。

 つまり、大人になっても翌日ぱんぱんに腫れる人が増える、という話になる。

 弱くなるのではない。むしろ、いつまでも派手に反応する。

 俺が聞いた話とは、向きが逆だった。

 ついでに、蚊そのものについても調べた。

 二〇二四年の夏、「蚊を見ない」と言われた。

 理由が意外だった。暑すぎるからである。

 蚊がよく動くのは、気温が二十五度から三十度のとき。三十五度を超えると、木陰などに潜んで、わざわざ暑いところへ血を吸いに出てこない。

 人間が「暑いから出たくない」と言っているその日に、蚊も同じことを考えていたことになる。

 雨が降らないのも効く。蚊は卵からサナギまでを水の中で過ごすので、水たまりがなければ、そもそも生まれない。晴れ続きの猛暑は、二重に蚊を減らす。

 ただし九月に気温が下がり、台風が雨を落とすと、水たまりができてたちまち湧く。十月の下旬までは油断できないそうだ。

 蚊が減ったのは、蚊が弱ったからではなかった。

 ……これも、さっきと同じ形である。今日は二回同じ形を踏んだ。

 というわけで、俺の腕の赤いところは、もう消えている。

 四十七年かけて、俺の体は蚊のことを覚えたらしい。刺されるたびに抗体を作り、作るほどに、反応のほうは後退していく。

 抗体が増えて、後退する。

 ……うまいこと言うたつもりやが、髪の話やと思われたら心外である。

参照した記事

※この文章はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。 蚊刺されの反応と蚊の生態について記した事実は、上に挙げた記事によります。

この連載について

『天声人誤 ——ある誤読者の手記』は、東京都飽留野市(架空)に住むタウン誌記者・中村悟が 書いている、という体裁の不定期連載です。

世の中の出来事、街の日常、走った先で見たもの——何でも扱いますが、語り手はそのすべてを 少しずつ読み違えます。実在の出来事に触れた回では、参照した記事へのリンクを末尾に置いています。

更新は不定期。ネタが溜まったときに書きます。

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