
夜中に原稿を書いていて、腕を刺された。
ぴしゃりとやったが、逃げられた。刺されたところが赤く小さく盛り上がって、少しかゆい。かいた。一時間ほどで、何ごともなかったように引いた。
……こんなものだったか、と思った。
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子どものころは、こうではなかった。
夏休みに刺されると、翌日に腫れた。刺された点を中心に、ぱんぱんに膨れる。水ぶくれになったこともある。母親に「かくな」と言われ、かいて、怒られた。ひざの裏あたりを刺されると三日は不機嫌だった。
いまは一時間で済む。
年を取って鈍くなったのだろう、と俺は思った。
そういえば、最近こんな話も聞いた。近ごろの子は蚊に刺されないから、免疫が弱くなっている。なるほど、そういうものかもしれない。俺のこれも、その仲間だろう。
……と、ここまで納得したところで、いちおう調べた。近ごろ、決めつけて書きかけて痛い目に遭っているからである。
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まず、大前提が違っていた。
あのかゆみは、免疫が働いている証拠である。
蚊は血を吸うときに唾液を注ぐ。それに対して体が起こすアレルギー反応が、赤みであり、腫れであり、かゆみである。刺されて何ともないというのは、免疫が弱いのではなく、反応をやめたということだった。
皮膚科の先生の監修した記事に、年代ごとの変化が出ていた。
- 新生児・乳児 … 無反応(蚊の唾液成分に、まだ免疫がない)
- 幼児期〜青年期 … 遅延型だけ → やがて遅延型と即時型の両方
- 壮年期 … 即時型だけ
- 老年期 … 無反応
即時型は、小さな腫れとかゆみが一、二時間で治まるもの。遅延型は、翌日以降に腫れやかゆみが出て、大きく腫れたり水ぶくれになったりするもの。
俺のひざの裏の三日間は、遅延型だったわけである。そしていまの一時間は、即時型である。
鈍くなったのではない。段階が進んだのだった。
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この表を眺めていて、俺は妙なことに気づいた。
いちばん上と、いちばん下が、同じ言葉である。
新生児は無反応。老年期も無反応。
どちらも「刺されても、なんともない」。見た目はまったく同じである。
だが、理由が正反対だった。
- 赤ん坊が反応しないのは、まだ何も知らないから
- 年寄りが反応しないのは、もう覚えてしまったから
同じ顔をした二つが、両端に置いてある。知らないから静かなのか、知り尽くして静かなのか、外からは見分けがつかない。
これは蚊の話ではない気がしてきたが、話を戻す。
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もう一つ、はっきり書いてあったことがある。
段階の進み方には個人差が大きく、年齢よりも「刺された頻度」と体質で決まる。
……ということは、だ。
最初に聞いた話——近ごろの子は刺されないから免疫が弱い——を、この理屈に当てはめてみる。
刺される回数が少なければ、段階は進まない。段階が進まなければ、遅延型のままである。
つまり、大人になっても翌日ぱんぱんに腫れる人が増える、という話になる。
弱くなるのではない。むしろ、いつまでも派手に反応する。
俺が聞いた話とは、向きが逆だった。
*
ついでに、蚊そのものについても調べた。
二〇二四年の夏、「蚊を見ない」と言われた。
理由が意外だった。暑すぎるからである。
蚊がよく動くのは、気温が二十五度から三十度のとき。三十五度を超えると、木陰などに潜んで、わざわざ暑いところへ血を吸いに出てこない。
人間が「暑いから出たくない」と言っているその日に、蚊も同じことを考えていたことになる。
雨が降らないのも効く。蚊は卵からサナギまでを水の中で過ごすので、水たまりがなければ、そもそも生まれない。晴れ続きの猛暑は、二重に蚊を減らす。
ただし九月に気温が下がり、台風が雨を落とすと、水たまりができてたちまち湧く。十月の下旬までは油断できないそうだ。
蚊が減ったのは、蚊が弱ったからではなかった。
……これも、さっきと同じ形である。今日は二回同じ形を踏んだ。
*
というわけで、俺の腕の赤いところは、もう消えている。
四十七年かけて、俺の体は蚊のことを覚えたらしい。刺されるたびに抗体を作り、作るほどに、反応のほうは後退していく。
抗体が増えて、後退する。
……うまいこと言うたつもりやが、髪の話やと思われたら心外である。
参照した記事
- 高齢者は蚊に刺されてもかゆくない? 子どもと大人で“かゆみ”が違う理由 - ウェザーニュース(ウェザーニュース / 2025-07-04 / 監修: 夏秋優(近畿中央病院皮膚科部長・兵庫医科大学特別招聘教授)/ 参照 2026-08-19)
- 真夏の厄介者「蚊」が猛暑で激減! しかし9月には大量発生するかも?! 10月下旬までは気が抜けない 日陰の植木鉢は要注意! | 特集 | ニュース | 関西テレビ放送 カンテレ(関西テレビ / 参照 2026-08-19)
※この文章はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。 蚊刺されの反応と蚊の生態について記した事実は、上に挙げた記事によります。
この連載について
『天声人誤 ——ある誤読者の手記』は、東京都飽留野市(架空)に住むタウン誌記者・中村悟が 書いている、という体裁の不定期連載です。
世の中の出来事、街の日常、走った先で見たもの——何でも扱いますが、語り手はそのすべてを 少しずつ読み違えます。実在の出来事に触れた回では、参照した記事へのリンクを末尾に置いています。
更新は不定期。ネタが溜まったときに書きます。
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