「あ、お気になさらず。どうぞ、ごゆっくり」
図書室のカウンターで、僕はいつものように、判で押したような丁寧な言葉を口にする。相手は、週に三回は顔を見せる常連の、近所に住む大学院生だ。
ふと思った。僕は彼と三ヶ月も顔を合わせ、時にはおすすめの本について数分間語り合うこともある。それなのに、僕たちの間には常に、分厚くて冷たい「敬語」という名の防弾ガラスが横たわっている。
丁寧であればあるほど、相手との距離は正しく保たれる。それは安全だが、どこか寂しい。敬語は潤滑油であると同時に、相手を「それ以上踏み込ませない」ための拒絶の合図でもあるからだ。
「湊くん、また始まった。接客業なんだから、敬語なのは当たり前でしょ」
閉店間際、仕事用のタブレットを叩きながら透子が言った。彼女は僕が言葉の定義について悩み出すと、決まって「正論のナタ」を振るってくる。
「分かってるよ。でもさ、親しくなりたいと思っている相手にまで敬語を使い続けるのは、なんだか『あなたのことを信用していません』と言い続けているみたいで、不誠実な気がしないかな」
「逆だよ。いきなりタメ口で来られたら、プライバシーを土足で踏み荒らされた気分になるわ。敬語は『私はあなたの領域を侵しません』っていう、最高の敬意の表れなの」
「……最高、かな。最低限の礼儀じゃなくて?」
「湊くんみたいに、誰とでも心の深部で繋がりたいと思っている人間の方が珍しいの。みんな、適度な距離感で、傷つかないように生きていたいのよ。そのためのバリアが敬語。便利じゃない」
透子はタブレットを閉じ、僕をまっすぐ見た。
「もし明日から、街中の人間がみんなタメ口になったら、湊くんは三時間で精神が崩壊すると思うけど?」
……確かに。想像してみると、駅の構内放送やコンビニの店員に「お、これ温める?」「早く並べよ」と話しかけられる世界は、あまりに剥き出しで、恐ろしい。
僕は結局、その夜の透子に対しても、少しだけ丁寧な言葉を使って話してしまった。
信号が青になるのを待つ間、僕は自分の使う言葉の温度を確かめる。
壁は、自分を守るために必要だ。けれど、いつか誰かとその壁を壊して、生身の言葉でぶつかり合える日が来ることを、僕はどこかで期待し続けている。