金曜日の夜。透子が玄関を開ける音は、いつもより少しだけ重い。
靴を脱ぎ散らかし、ソファに倒れ込む彼女の背中からは、「今週の全てを使い果たした」という無言のオーラが漂っていた。
「湊くん……固形物はいらない。でも、何か栄養があって、噛まなくていいものが食べたい……」
「無茶を言わないで。噛まなかったら消化に悪いよ」
僕はキッチンに立ち、冷蔵庫から春キャベツを取り出した。
この時期のキャベツは、葉が柔らかく、水分をたっぷりと含んでいる。それをざく切りにして、にんにくとアンチョビ、少しの鷹の爪と一緒にフライパンでじっくりと炒める。
キャベツの甘い香りが立ってきたら、茹で上がったパスタを合わせる。
「春キャベツとアンチョビのパスタ」。
シンプルだが、素材の力が一週間の疲れを剥ぎ取ってくれる、僕なりの「金曜日の処方箋」だ。
「……美味しい。春の味がする」
透子は、さっきまでの死んだような目が嘘のように、夢中でフォークを動かした。
「ねえ、湊くん。会社でさ、また理不尽なことがあったの。上司が『昨日の指示は間違いだったけど、今日中に修正しろ』って。謝りもしないで。その瞬間の私の心、このキャベツみたいに炒められてシナシナだったんだから」
「それは災難だったね。でも、キャベツは炒めることで甘みが増すんだよ。透子も、その理不尽を経験したことで、少しは人間としての甘みが……」
「増さないよ。苦いだけだよ」
彼女は間髪入れずにツッコみ、最後の一口を飲み込んだ。
「でも、このパスタを食べたら、その上司に明日から優しくできる気がする?」
僕が聞くと、彼女はきっぱりと首を振った。
「まさか。月曜日になったら、またあいつのコーヒーに塩を入れる方法を考えるわ。でも、今はいいの。お腹が満たされて、家の中にキャベツのいい匂いがしてる。それだけで、私の勝ちよ」
勝敗の基準は、人それぞれだ。
透子にとっての勝利は、理不尽に打ち勝つことではなく、理不尽を経験してもなお「美味しい」と感じる自分の感覚を守り抜くことなのだろう。
僕は空になった皿を片付けながら、彼女の逞しさに少しだけ救われたような気がした。
金曜日の夜は、どんな正論よりも、一皿のパスタの方が人を正しく導いてくれる。
湊の金曜レシピ:春の疲れを癒やす「春キャベツとアンチョビのパスタ」
一週間の理不尽を、春の甘みで洗い流す一皿。
噛まなくていいほど柔らかい春キャベツが、疲れた心に優しく寄り添います。
【材料】(1人分) * パスタ(フェットチーネやリングイネなど平麺がおすすめ) … 100g * 春キャベツ … 1/4玉(ざく切り) * アンチョビフィレ … 3〜4枚 * にんにく … 1片(みじん切り) * 鷹の爪 … 1本(種を取り除く) * オリーブオイル … 大さじ3 * 塩・黒胡椒 … 適量 * パスタの茹で汁 … 大さじ3〜4
【作り方】 1. たっぷりのお湯に塩を入れ、パスタを袋の表示より1分短く茹でる。 2. フライパンにオリーブオイル、にんにく、鷹の爪を入れて弱火で香りを出す。 3. にんにくが色づく前にアンチョビを加え、木べらで潰しながら溶かす。 4. 春キャベツを加え、中火でしんなりするまで炒める(3〜4分)。 5. 茹で上がったパスタとパスタの茹で汁を加え、全体を絡める。 6. 塩・黒胡椒で味を調え、器に盛る。
【湊のひと言】 「春キャベツは炒めることで甘みが増します。理不尽な出来事も、時間をかけて向き合えば、少しだけ甘くなるかもしれません。今夜はゆっくり休んでください」