火曜日の昼下がり。外出の帰りに乗った電車は、そこそこの混み具合だった。
僕の目の前には、優先席ではないけれど、一人分の空席がある。そこへ、杖をついたお年寄りが乗ってきた。
隣に座っていた若い女性が、瞬時に立ち上がって「どうぞ」と声をかけた。そこまでは、よくある美しい光景だった。
ところが、そのお年寄りは「あ、すぐ降りますから、大丈夫です」と、少し頑固そうな顔をして断ったのだ。
女性は、立ったまま。席は空いたまま。お年寄りは、揺れる電車の中で必死に手すりにしがみついている。
この状況において、正解は何なのだろう。
女性が再び座れば、彼女の親切は拒絶されたことになり、気まずい空気が流れる。
お年寄りが無理をして座れば、彼の「自分はまだ大丈夫だ」というプライドが少しだけ傷つく。
そして僕がその席に座る勇気など、当然あるはずもない。
「ねえ、透子。こういう時、どうすれば誰も傷つかずに済んだんだろう」
夜、その話をすると、透子はビールを喉に流し込んでから、あっさりと答えた。
「湊くん、考えすぎ。女性は『席を譲った自分』を肯定すればいいし、おじいさんは『断った自分』を貫けばいい。誰も悪くないじゃない」
「でも、あの空席が、まるで解決できない問題の答えみたいに、ずっとそこに放置されているのが耐えられなかったんだ」
「解決しようとするから苦しいの。世の中には『解決しないまま置いておくのが一番いいこと』もたくさんあるのよ。あの席は、親切心とプライドがちょうど釣り合った場所だったってことでしょ」
釣り合った天秤。
彼女の解釈は、あまりに現実的で、そして少しだけ残酷だ。
親切は、受け取られて初めて完成するものだと思っていた。けれど、受け取られなかった親切もまた、どこかで誰かの心に小さな波紋を残しているのかもしれない。
僕は、あの時の女性の、少しだけ寂しそうだった横顔を思い出しながら、冷めたお茶を飲み干した。