水曜日の図書室に、場違いな音が響いた。
カツ、カツ、カツ。
それは、透子が履いている赤いハイヒールが床を叩く音だ。いつもの彼女なら、図書室に入る前に少しだけ歩幅を緩め、音を殺して入ってくる。けれど今日の彼女には、そんな繊細な配慮を払うだけの「心の余白」がないようだった。
「湊くん、悪いけどコーヒー。ブラック。死ぬほど濃いやつ」
彼女はカウンターに突っ伏すなり、そう吐き捨てた。仕事用のカバンからは、分厚い企画書がはみ出している。
「随分と戦闘態勢だね。そのヒール、今日はいつもより高く見えるよ」
「戦場に行くのに、低い靴なんて履いてられないわよ。今度のクライアント、典型的な『声の大きい方が勝つ』と思ってるタイプなの。こっちもそれなりの武装をしてないと、一瞬で飲み込まれちゃう」
僕は黙ってコーヒーを淹れる。
豆を挽く音だけが、彼女の荒い呼吸を少しずつ鎮めていく。
「武装、か。でも透子、そのヒールで一日中歩き回ったら、足だけじゃなくて心まで靴擦れしちゃうんじゃないかな」
「靴擦れなんて、絆創膏(ばんそうこう)を貼っておけば治るわよ。でも、ここで一歩引いたら、プロジェクト全体が死ぬの。……湊くんには分からないでしょうね。こうやって、自分の正義を半分殺してでも、進めなきゃいけない時があるってこと」
彼女は差し出されたコーヒーを、まるで薬でも飲むように一気に煽(あお)った。
その横顔は、僕の知っている「土曜日に昼寝をする透子」とは別人のように鋭く、遠い。
彼女が守ろうとしている「プロジェクト」は、一体誰を幸せにするものなのだろう。そんな問いが口を突きかけたが、僕はそれを飲み込んだ。今の彼女に必要なのは、哲学的な問いではなく、ただのカフェインと、沈黙なのだと知っていたからだ。
彼女が去った後の図書室に、赤いヒールの残響だけがいつまでも残っていた。
信号が青になっても、彼女はきっと走り続けるだろう。その先に何があるのかを確かめる暇もないまま。