水曜日の朝、図書室の返却ポストに、またあの「彼」あるいは「彼女」からの返却本が入っていた。
今回の本は、古い写真集だった。高度経済成長期の、まだ埃っぽくて活気に満ちた街並みを切り取った一冊。その最後のページに、あのピンク色の付箋が貼られていた。
『真実を映すはずのレンズが、時に一番残酷な嘘をつく。あなたは、自分の目で見ているものを信じていますか?』
走り書きの文字は、前回よりも少しだけ震えているように見えた。
自分の目で見ているものを信じる。それは当たり前のようでいて、今の僕たちには最も難しいことかもしれない。スマートフォンの画面越しに加工された景色を見続け、誰かのフィルターを通した意見を自分の考えだと思い込んでいる。
「湊くん、またあの付箋? 気持ち悪いから、一度防犯カメラでも確認したら?」
夜、図書室に顔を出した透子が、付箋を指先で弾きながら言った。彼女の指先は、今日も完璧に整えられたネイルで武装されている。
「カメラで正体を知ることが正解だとは思えないんだ。この人は、僕に正解を求めているんじゃなくて、問いを共有したいだけだと思うから」
「ふーん。私なら、正体の分からない問いなんて、ノイズでしかないけどね。仕事でもそうよ。誰が言ったか分からない意見は、存在しないのと同じなの」
彼女はそう言って、洗面所へ向かった。
しばらくして、水の流れる音が止まらなくなった。見に行くと、彼女が蛇口をきつく締めているのに、ポタ、ポタ、と雫が落ち続けていた。
「壊れちゃったのかな。……なんだか、私の心みたい」
彼女が自嘲気味に呟いた。
「締めようと思えば思うほど、余計なものが溢れてくるの。湊くん、これ、修理できる?」
僕はパッキンを交換すれば直るよ、と言いかけて止めた。
今の彼女に必要なのは、物理的な修理ではなく、溢れ出るものをそのままにしておける「受け皿」なのだ。
僕はバケツを持ってきて、蛇口の下に置いた。
ポチン、とバケツの底に響く音は、どこか遠い警告音のようにも、小さな心臓の鼓動のようにも聞こえた。