木曜日。図書室に戻った僕は、昨日見つけた「井戸」のことが頭から離れなかった。
あの空き地は、再開発計画の図面では「大型商業施設の搬入口」になる予定の場所だ。地底を流れる水脈も、あの錆びたポンプも、重機によって跡形もなく押し潰されてしまうだろう。
「湊さん、今日はなんだか、遠くを見てるね」
カウンターにやってきた常連の大学生が、僕の顔を覗き込んだ。
「……そう見えますか。言葉にならないものを、どうやって守ればいいか考えていたんです」
「言葉にならないもの、か。……僕たちって、何でも名前をつけて、分類して、説明できないと不安になっちゃうけど。本当は、説明できないものの中にこそ、一番大事なことが隠れてるのかもね」
彼はそう言って、一冊の詩集を借りていった。
夜、帰宅した透子に井戸の話をすると、彼女は意外にも静かに耳を傾けていた。
「……地下の水脈ね。私の仕事も、似たようなものかも」
「どういうこと?」
「表向きは派手な広告を作っているけど、本当に伝えたい『誰かの想い』は、大抵、会議の途中で切り捨てられちゃう。でも、切り捨てられたはずの想いが、時々、深夜のオフィスでふっと蘇ることがあるのよ。……あれ、私、何のために頑張ってるんだっけって」
彼女は、アイロンのかかったシャツの袖を乱暴に捲り上げた。
「湊くん。その井戸、いつか私にも見せて。再開発で消えちゃう前に、一度だけでいいから、その『消えない音』を聴いてみたい」
効率と利益の濁流の中で、僕たちは皆、自分の中にある静かな水脈を探している。
木曜日の夜。窓の外では、街の灯りがせわしなく明滅していた。けれど、僕たちの心の中には、あの錆びたポンプが刻む、不器用なリズムが響き始めていた。