土曜日の午前中。僕と透子(とおこ)は、あの座標が示した神社の裏手にある井戸の前に立っていた。
五月の眩しい光が、錆びついた手押しポンプの輪郭をくっきりと浮き彫りにしている。昨日までのスパイスの余韻が残っているのか、透子の足取りは少しだけ軽やかだった。
「……本当に、ただの古いポンプだね。でも、なんだかここだけ時間が止まっているみたい」
彼女がポンプのレバーに触れようとした時、「勝手に触っちゃいかんよ」と、背後から枯れた声が響いた。
振り返ると、そこに腰の曲がった老人が立っていた。色褪せた作業着を着て、手には小さな如雨露(じょうろ)を持っている。
「……すみません。壊れているようだったので」
「壊れちゃいない。ただ、誰も動かさなくなっただけだ。わしはこの街で配管工をやってた重じいという。この井戸はな、わしの親父が掘ったんだ」
老人は愛おしそうにポンプを撫でた。
「昔はここが街の心臓だった。水道が引かれる前、みんなここで水を汲み、無駄話をしていった。効率が悪くなって、みんな去っていったが……地下を流れる水は、今でも冷たくて清らかだよ」
重じいは如雨露に水を注ごうと、力強くレバーを動かした。ギィィ、ギィィという悲鳴のような音のあと、吐き出された水は、驚くほど透き通っていた。
「再開発でここも消えるそうじゃないか。上っ面だけ新しくして、何がコミュニティだ。足元に何が流れているかも知らん若造どもが」
老人の言葉は、鋭い針のように僕たちの胸を刺した。
透子は、その水をそっと指先で掬(すく)った。
「……冷たい。凑くん、これ、本物だね」
効率という名の地表を突き破って溢れ出した、過去からのメッセージ。
僕たちは黙って、その冷たい水がコンクリートの割れ目に吸い込まれていくのを眺めていた。