火曜日の朝。説明会の余韻が、重い倦怠感となって体に残っていた。
図書室に行くと、カウンターの返却本の中に、紫式部の『源氏物語』が入っていた。現代語訳ではなく、注釈がびっしりと書き込まれた、古い学術書のような一冊。
その「桐壺」の巻末に、あの付箋があった。
『昨夜のあなたの声は、この図書室の静寂と同じ匂いがしました。孤独とは、一人でいることではなく、自分だけが違う景色を見ていると自覚することです。あなたはもう、独りではありません』
付箋の主は、昨日の説明会に来ていたのだ。
「あなた」という呼びかけが、僕の孤独をそっと包み込む。
紫式部の時代から千年。愛や憎しみ、そして社会の中での居場所のなさに悩む人間の営みは、本質的には変わっていない。
「湊くん、昨日の発言、ネットの地元掲示板でちょっと話題になってたわよ。半分は『変な奴』、もう半分は『よく言った』って」
透子が、コンビニのサンドイッチを持って図書室に現れた。
「……そう。半分も『よく言った』があるなら、勝算はあるかな」
「勝算なんてないわよ。でも、湊くんが投げた小石が、あのデベロッパーの完璧な計画に、ほんの少しだけ波紋を作ったのは確かね」
彼女はそう言って、僕の肩を軽く叩いた。
信号が青になっても、みんなが同じ速度で歩く必要はない。
立ち止まり、足元の水脈に耳を澄ませる人間が、この街に僕以外にもいる。
その事実が、昨日までの僕を少しだけ強くしてくれた。
僕は『源氏物語』のページを捲り、千年前に生きた作者が綴った、ままならない人生の機微に、そっと指先で触れた。