木曜日。閉館後の図書室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
僕は一人、返却された本を棚に戻す作業を続けていた。ふと、哲学の棚にあるアルベルト・カミュの『シーシュポスの神話』に目が止まった。
何かに導かれるように本を手に取ると、案の定、あのピンク色の付箋がそこにあった。
『岩を転がし続ける無意味さに耐えることが、人間の誇りであるとカミュは言いました。湊さん、あなたの「岩」は、少しずつ形を変えていませんか? 孤独は、いつか連帯へと繋がる水脈を探し当てるはずです』
付箋の主は、僕の現状をすべて見透かしているようだった。
僕が説明会で発言したこと。それに伴う小さな嫌がらせ。そして、僕が抱えている「この場所を守らなければならない」という重い岩。
「湊くん、またその本を抱きしめて。誰かと交信中?」
いつの間にか背後に立っていた透子が、面白そうに覗き込んできた。彼女は今日、仕事で大きなコンペに勝ったらしく、珍しく晴れやかな顔をしていた。
「……交信というか、答え合わせをしている気分なんだ。この人は、僕が迷った時に必ず、一番必要な言葉を置いていってくれる」
「ふーん。それって、一種の『恋』じゃないの? 形のない、思想的な恋」
「……恋なのかな。でも、この人と話していると、自分がこの街で一人きりじゃないって、強く思えるんだ」
透子は僕の手から本を取り、付箋の文字をじっと見つめた。
「連帯へと繋がる水脈ね……。いいわ、もしその水脈が見つかったら、私も混ぜてよ。広告の仕事で汚れた心を、その地下水で洗い流したいから」
彼女は冗談めかして言ったが、その指先は付箋の端を愛おしそうになぞっていた。
暗い図書室の中で、僕たちは見えない誰かからのメッセージを共有していた。
信号が青になるまで。僕たちはこの場所で、地下を流れる静かな音に耳を澄ませ続ける。