土曜日。僕たちは始発電車に乗り、一時間半かけて海へ向かった。
街の喧騒と再開発の騒音から逃れるための、小さな逃避行だ。五月の海は、まだ夏のような暴力的な輝きはなく、ただどこまでも優しく、透き通った青を湛(たた)えていた。
「……広いね。図書室の窓から見える空が、いかに切り取られたものだったかよく分かる」
透子(とおこ)が、スニーカーを脱いで波打ち際を歩きながら言った。彼女の足跡が、寄せては返す波にさらわれ、一瞬で消えていく。
「消えてしまうから、美しいのかな。それとも、消えてもいいと思えるほど、この場所が豊かなのかな」
「湊くん、海に来てまで難しいこと言わないでよ。今はただ、この潮風が気持ちいいってだけで十分じゃない」
彼女はそう言って、砂浜に座り込んだ。
僕は彼女の隣に座り、水平線を眺めた。あそこには境界線があるように見えるけれど、実際には空と海が溶け合っているだけだ。
再開発を守るか、壊すか。正義か、悪か。僕が悩んでいた二項対立も、この広大な青の前では、ちっぽけな砂粒のように思えてくる。
「……透子。僕、決めたよ。図書室を守るために、誰かと戦うんじゃなくて、この場所がいかに大切かを『書き留める』ことにする。あのデベロッパーの人たちにも、反対派の人たちにも届かないかもしれないけれど、誰かの心にこの景色を残しておきたいんだ」
「書き留める、か。湊くんらしいね。武器を持つ代わりにペンを持つのね。……いいわ、もしその記録が本になったら、私が最高のキャッチコピーをつけてあげる」
彼女は笑って、僕の肩に頭を預けた。
信号が青になっても、走り出さずに海を見る。
効率や利益という荒波に飲み込まれないための、僕なりの「錨(いかり)」を、僕は今、この砂浜に深く沈めた。