火曜日の朝。返却ポストに、芥川龍之介の『羅生門』が入っていた。
雨が降りしきる中、生きるために悪を正当化する下人の物語。ページをめくると、あの中盤、老婆の服を剥ぎ取る場面に、あのピンク色の付箋があった。
『「生きるためなら何をしてもいい」という老婆の理屈は、今の社会のシステムの正体です。再開発も、効率化も、誰かが生き残るための「剥ぎ取り」ではないでしょうか。湊さん、あなたは下人になりますか? それとも、雨の中に消えていく老婆になりますか?』
付箋の主は、僕が手に入れた「調査」という武器さえも、誰かを傷つけるためのものになり得ると警告しているようだった。
建物を守ることは、誰かの利益を奪うことでもある。再開発を待ち望んでいる人にとっては、僕こそが「正義の仮面を被った悪」に見えているのかもしれない。
「湊くん、またその難しい顔。付箋の人、今度は何を言ってきたの?」
図書室に立ち寄った透子が、いつものように僕の顔を覗き込む。
「……正義って、場所によって形を変えるんだね、という話だよ。僕が守ろうとしているものは、他の誰かにとっては邪魔なものでしかないんだ」
「当たり前じゃない。百人が百人とも納得する答えなんて、この世にないわよ。だからみんな、声の大きい方に従うか、最初から考えないようにしてるの」
透子はそう言って、僕のデスクにあった一輪のアスパラガス(先週の残り)を指先で弾いた。
「でもね、湊くん。下人か老婆かなんて、選ばなくていいのよ。あなたはただ、その雨宿りの場所を掃除して、誰かが雨を凌げるようにしておけばいい。それが管理人の仕事でしょ?」
透子の言葉は、迷宮に入り込んでいた僕の思考を、元の場所へと引き戻してくれた。
誰かを裁くのではなく、ただこの場所にある価値を認め続けること。
僕は『羅生門』を閉じ、その表紙に触れた。
雨は、まだ降り止まない。けれど、この軒下にいる間だけは、誰もが「自分」でいられるように。
僕は明日、調査員の方に見せるための、この建物の歴史を記した古い日記を整理し始めた。