土曜日。五月の最後を飾るような、どこまでも高い青空が広がっていた。
図書室のテラス席で、僕は昨日透子が残した、わずかなメイプルシロップの香りを思い出しながら、一冊の古い地誌を捲(めく)っていた。
ふと、一人の常連の老婦人が、僕の元にやってきた。
「湊さん。最近、なんだかこの場所が、以前よりも『濃く』なった気がするわね。……目に見えない何かが、ここを守ろうとしているみたい」
「……濃く、ですか。文化財の調査が入ったからでしょうか」
「いいえ。そうじゃなくて、湊さん。あなたが、この場所の声を聞こうとしているからよ。建物ってね、誰かが自分たちのことを想ってくれていると、それに応えようとするものなのよ」
彼女はそう言って、優しく微笑んで去っていった。
想いは、数字にはならない。けれど、確かに空気の密度を変える。
夕暮れ時、空の端に薄い雲が広がり始めた。天気予報によれば、明日からはいよいよ、湿った季節の始まりを告げる雨が降るという。
「湊くん、明日から雨だって。私の大事な靴、全部メンテナンスしなきゃ」
夜、図書室に顔を出した透子が、少し憂鬱そうに言った。
「……雨か。新しい季節が来るんだね」
「そうね。五月病なんて言っている暇もなかったけど。……ねえ、六月になっても、私たちの『信号待ち』は続くのかな」
彼女の横顔を、沈みゆく夕日が赤く染めた。
信号が青になっても、その先に広がる景色が、いつも輝いているとは限らない。
けれど、僕たちはこの一ヶ月で、一緒に雨を凌(しの)ぎ、同じトーストを分かち合う方法を学んだはずだ。
僕は窓を閉め、静かになった図書室に、新しい月の準備を始めた。