水曜日の朝。返却ポストに、一冊の古い『万葉集』が入っていた。
著作権の概念など存在しなかった千年以上前の歌集。ページをめくると、あの中大兄皇子の有名な歌ではなく、あまり目立たない一首の横に、あのピンク色の付箋があった。
『雷神(なるかみ)の、少し響(とよ)みて、さし曇り、雨も降らぬか、君を留(とど)めむ』
雷が鳴って、雨が降ってくれたら、あなたをここに引き留められるのに。
付箋には、繊細な筆跡でこう書き添えられていた。
『湊さん。雨は、人と人を分断する壁ではなく、誰かを繋ぎ止めるための理由にもなります。あなたは今、誰がここに留まってくれることを願っていますか?』
付箋の主は、僕の心の隙間に、冷たい雫を落としていった。
僕が留めておきたいのは、この図書室という場所だろうか。それとも、毎日戦場のような現実へ向かっていく、透子の背中だろうか。
「湊くん、またその万葉集を抱えて。……雨を理由に、仕事をサボれたらいいのにね」
透子が、湿った髪をタオルで拭きながら現れた。彼女は今日、仕事で外回りをしていたらしく、足元が泥で少し汚れていた。
「……透子。千年前の人もね、雨が降ればいいのにって願っていたんだよ。そうすれば、好きな人を帰さなくて済むから」
「ロマンチックね。でも、今の時代にそれをやったら『不法占拠』か『監禁』よ。雨が降ろうが槍が降ろうが、電車は動くし、納期は守らなきゃいけないんだから」
彼女のリアリズムは、千年の時を超えて僕を現実に引き戻す。
けれど、彼女がタオルを置いた時、その指先がわずかに震えているのを僕は見た。
彼女だって、本当は雨の中に閉じ込められて、誰かに「ここにいていいよ」と言ってもらいたいのではないだろうか。
僕は何も言わず、彼女のために少し濃いめのココアを淹れた。
万葉の時代から続く、雨の日の切ない願い。それは形を変えて、今も僕たちの胸の中で鳴り響いている。