木曜日。透子が仕事から帰ってくるなり、いつになく激しい勢いでカバンをソファに投げつけた。
「……湊くん、笑っていいわよ。私、今度のプロジェクトで、例の『再開発エリア』のPR担当に指名されたわ」
その言葉は、静かな部屋に重く響いた。
第1の糸、透子の仕事。それがついに、第3の糸である「図書室の存続」と真っ向からぶつかったのだ。
「私の会社、あのデベロッパーのメインパートナーなの。上司は『地域住民に未来の夢を見せろ』って言ってる。……湊くんが守ろうとしている場所を壊すための、綺麗な言葉を作るのが、私の仕事になっちゃった」
彼女の瞳には、怒りと、それ以上に深い絶望が浮かんでいた。
これこそが、現実が突きつけてくる最も残酷な「トロッコ問題」だ。
会社員としての責任を果たすか、愛する人の居場所を守るか。レバーを引かなければならないのは、僕ではなく彼女の方だった。
「……透子。君が悪いわけじゃない。君がその仕事を断っても、別の誰かが同じことをするだけだよ」
「そんなの分かってる! でも、鏡を見るたびに、自分が湊くんの敵に見えるのが耐えられないのよ。……私は、私を殺してまで、この街に『新しい夢』を売らなきゃいけないの?」
彼女は顔を覆い、膝を抱えた。
雨は激しさを増し、窓ガラスを叩く音が部屋を支配する。
僕たちは、同じ屋根の下にいながら、別の戦場に立たされていた。
信号は点滅している。けれど、進むことも戻ることもできないまま、僕たちは暗闇の中で立ち尽くしていた。