月曜日の朝。透子は、いつもより三十分早く家を出た。
カバンの中には、週末を削って書き上げた新しいコンセプト案が入っている。タイトルは「記憶を継承する街」。それは、デベロッパーが求める「未来への疾走」を、あえて「過去への眼差し」に書き換えるという、彼女なりの宣戦布告だった。
「湊くん、行ってくるわ。……もし夕方になっても連絡がなかったら、玉砕したと思って、美味しいお酒でも買っておいて」
彼女は冗談めかして言ったが、その瞳は、嵐に向かう小舟のように張り詰めていた。
図書室のカウンターで、僕は彼女の戦いを想像していた。
午後、ようやく届いた短いメッセージ。
『コンセプト、却下はされなかった。でも、「美談」として利用されそう。私の意図とは違う方向に、言葉が磨かれ始めている』
彼女の危惧は、昨日僕にかかってきた謎の電話の声と重なっていた。
「綺麗な言葉は、本物の記憶をより深く埋め殺す」。
企業が「歴史」を語る時、それは往々にして、都合の悪い真実を隠すための「上質な壁紙」に成り下がってしまう。透子が必死に救い上げようとした記憶の破片は、いつの間にか「好感度を上げるためのパーツ」として、巨大な資本の論理に組み込まれようとしていた。
信号は青。けれど、進めば進むほど、自分たちが守りたかったものの輪郭がぼやけていく。
僕は窓の外で降りしきる雨を見つめながら、彼女の帰りを待った。
夜、帰宅した彼女のヒールは、いつもよりずっと重い音を立てていた。