火曜日の朝。返却ポストに入っていたのは、フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』だった。
過去を取り戻そうとして、悲劇的な結末へと向かう男の物語。ページをめくると、ギャツビーが「過去をやり直せるさ」と断言する有名な場面に、あのピンク色の付箋があった。
『「過去はやり直せない」と言うのは、変化を望む側の理屈です。「過去は消せない」と言うのは、今の痛みを守りたい側の理屈です。湊さん、あなたは今、どちらの側で言葉を紡いでいますか?』
付箋の主は、透子の提案が「美談」にすり替えられようとしている現状を知っているかのようだった。
過去を「やり直す」ために、不都合な歴史を書き換え、綺麗なパッケージにして販売する。それはギャツビーが演じた孤独な虚飾と、今の再開発計画がやろうとしていることが、ひどく似通っているように思えた。
「湊くん。その付箋の人、いっそ私の会社のアドバイザーにでもなってほしいわ。その鋭さがあれば、部長の無意味な修正案を粉砕できるのに」
夜、付箋を読み上げた透子が、自嘲気味に笑った。彼女のデスクには、修正を指示された企画書が山積みになっている。
「過去を消せないから、人は苦しむんだよね。でも、消せないからこそ、それが自分の『証』になるのに」
僕が言うと、透子は黙って僕の手から付箋を奪い、じっと見つめた。
「……私の仕事は、その『証』を上手に塗り潰して、誰にとっても心地よい物語にすること。それがプロの技術だって教わってきた。でも、湊くんの横にいると、その技術がただの『罪』に見えてくるから困るのよ」
彼女はそう言って、僕の肩に頭を預けた。
雨音の向こう側で、誰かが僕たちの葛藤を笑っているような気がした。
信号は点滅している。僕たちはまだ、過去と未来の狭間で、自分の立ち位置を見つけられずにいた。