YMO世代の気持ち -ノベル館-

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第90話:月曜日の静寂、最後の名札

月曜日。
 透子(とおこ)が自分の会社に出勤する、最後の朝だった。

 辞表はすでに提出されている。今日は引き継ぎと私物の整理をするだけの、形式的な一日に過ぎない。けれど、彼女はいつもより三十分早く起き、いつもより丁寧に化粧をして、お気に入りの紺色のスーツに袖を通していた。
「……湊くん。私、変かな」
「全然。透子は、どんな時でも綺麗だよ」
「そういうことじゃなくて。辞めるって決めたのに、最後の日だけ完璧に装いたいって思う自分が、矛盾してる気がするの」

 彼女は鏡の前で髪を整えながら、小さく息を吐いた。
「……でも、決めたことだから。誰にも文句を言わせないように、最後まで『仕事ができる透子』でいなきゃ」

 僕は彼女の肩に手を置いた。
「透子。それは『矛盾』じゃない。君が今まで築いてきたものへの敬意だよ。……ちゃんと、自分に『お疲れ様』を言ってあげてね」

 彼女は僕を振り返り、少しだけ目を潤ませて、それから力強く頷いた。

 夕方、僕は図書室で透子の帰りを待っていた。
 彼女が戻ってきたのは午後七時を回った頃だった。手には小さな段ボール箱。中身はデスクに置いていた観葉植物と、数冊の資料だけだった。

「……これだけ?」
「これだけよ。五年間働いた場所に残った私の痕跡は、ポトスと付箋紙だけだったの。なんだか笑えるでしょ」
 彼女はそう言って、カウンターに荷物を置いた。

 僕は彼女の表情を窺った。怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ、深い倦怠感が滲んでいた。
「……最後、何か言われた?」
「何も。『お疲れ様でした』って上司が一言だけ。後は、みんな顔も見てくれなかったわ。まるで、存在しなかった人間みたいに」

 透子は胸元のポケットから、小さなプラスチック製の名札を取り出した。
 『営業企画部 桐谷透子』
 その文字は、五年間彼女を支え、同時に縛り続けたアイデンティティだった。

「……湊くん。私、この名札が、今すごく重く感じるの。この小さなプラスチックが、私の全てだった時があったなんて、信じられないくらい」
 彼女はそれをカウンターに静かに置いた。

「透子。君はこれから、自分の名前を、自分の言葉で名乗れるんだ。会社の肩書きじゃなくて、『桐谷透子』として」
「……そうね。まだ実感ないけれど。でも、明日になったら、新しい私が目を覚ますのかもしれない」

 月曜日の夜。図書室の窓から見える街には、明日を急ぐ人々の影が行き交っていた。
 透子の名札だけが、カウンターに取り残されて、弱い照明の下で静かに光っていた。
 それは、過去への別れであり、そして、未来への小さな一歩だった。