土曜日。セミの大合唱が、思考を妨げるノイズのように降り注ぐ。
午前中、僕と透子が配った「号外」を手に、一人の男性がカウンターにやってきた。
近所でアパート経営をしている田原さんだ。いつもは穏やかな彼が、今日は眉間に深い皺を刻んでいる。
「湊くん。君の言いたいことはわかるよ。地盤が危ない、水脈がどうとか……」
彼は声を潜め、カウンターを指の関節でコンコンと叩いた。
「でもな、こういうビラを撒かれると困るんだよ。地価が下がる」
心臓がドクリと跳ねた。
予想していた反応ではあったが、面と向かって言われると、その言葉の刃は鋭く突き刺さる。
「僕たちのアパートは、この再開発のおかげで満室になる予定だったんだ。それを『危ない土地だ』なんて吹聴されたら、入居者が逃げちまう。……君の正義感で、俺たちの生活を潰さないでくれよ」
田原さんは怒鳴りこそしなかったが、その目には明確な拒絶の色があった。
ビラをカウンターに置き去りにして帰っていく彼の背中に、僕は何も言えなかった。
「……気にしちゃダメ」
書架の陰から、透子が出てきた。
「これは副作用よ。真実を暴く薬は、必ず誰かにとっての毒になる。全員にいい顔をして戦うなんて、最初から不可能なの」
「わかってる。でも……」
僕は置き去りにされたビラを手に取る。
僕が守ろうとしている「街」には、田原さんのような人々の「生活」も含まれているはずなのに。
信号は青だが、渡る足が重い。僕の正しさは、誰かの豊かさを奪うのかもしれない。