木曜日。図書室の窓の外は、バケツをひっくり返したような土砂降りだった。
あまりの雨脚の強さに、誰一人としてやってこない館内で、僕は返却本の一冊一冊に、新しいラベルを貼っていた。
ふと気配を感じて顔を上げると、入り口に一人の女性が立っていた。
濡れたレインコートを着て、顔はフードで深く覆われている。彼女は一言も発さず、僕と目が合うと、一冊の本をカウンターに置いた。
それは、先日僕が棚に戻したはずの、『華麗なるギャツビー』だった。
「……あの、これは先ほど返却されたばかりですが」
僕が声をかけたが、彼女は何も答えず、ただじっと僕を見つめていた。フードの陰から見える瞳は、どこか遠い記憶を呼び起こすような、不思議な光を宿していた。
彼女が去った後、僕はその本を手に取った。
挟まれていたのは、あのピンク色の付箋ではない。代わりに、小さな、押し花のようになった「シロツメクサ」が一輪、ページに挟まっていた。
「湊くん、誰か来たの?」
奥の部屋で作業をしていた透子が、不審そうに出てきた。
「……分からない。でも、あの付箋の主かもしれない。女性だった」
「女性? ……湊くん、なんだか、物語が動き出しちゃった感じね」
透子は、僕が持つシロツメクサを覗き込んだ。
「シロツメクサの花言葉は、『約束』。……彼女は、湊くんと何を約束したいのかしら」
雨音はさらに激しさを増し、僕たちの声を飲み込んでいく。
信号は赤。けれど、僕の心の中では、目に見えない何かが、静かに、しかし確実に動き始めていた。
名もなき訪問者が残していった花の香りが、湿った空気の中に、微かに漂っていた。